タイミングがずれ込んでいますが、昨年末に読んだ、ウィリアム・トレヴァーの短編集『聖母の贈り物』について書いておきたいと思います。
�蟾饅餞�行会、2007年2月初版発行
栩木伸明 訳
ウィリアム・トレヴァーは日本ではまだポピュラーとは言えませんが、一部の人は以下のような評価をしています。
“現存する最高のイギリス作家”(翻訳家 宮脇孝雄)、”現役作家の中で世界最高の短編作家”(小説家 若島正)。
長編も併行して書いていますが、これに収められたのは下の12の短編。
『トリッジ』
『こわれた家庭』
『イェスタデイの恋人たち』
『マティルダのイングランド』1.テニス・コート,2.サマーハウス,3.客間
『丘を耕す独り身の男たち』
『聖母の贈り物』
他4編、全12。
日本では初めてのトレヴァー短編集です。
時代設定は中世から現代迄巾があるが、イングランドやアイルランドの村や町を中心に、その背景に沁み込んだ如き男と女の行動や心のありようを描き出しています。
登場人物達の捕らえ方が微動だにしない、その強さがある時は冷徹にも見えます。
前出の若島正はこうも言っています。
「トレヴァーはあらゆる登場人物に対して、分け隔てなく、ほとんど等距離の位置を保って書くのだ。そして彼らをつかまえるグリップの強さが、人並はずれて強い」。
また、トレヴァーから1作翻訳もしている村上春樹は「彼の小説の特徴は、無駄のない的確でみずみずしい描写と、設定された人物像の揺らぎない精密さ、ナイフのように鋭くはあるけれど同時に不思議な優しさを含んだ小説的視線にある」。
前者の”グリップ”と後者の”小説的視線”は同じ事を意味しています。
結果、トレヴァーの登場人物達は、ひとりひとりが、作者の勝手な小都合で折り曲げられず、意思を持ったように立ち上がってきます。
ウィリアム・トレヴァーは、1928年にアイルランド南部のコーク州で生まれていますが、両親はプロテスタントのイングランド人です。
シェカール・カプールの映画、2つの『エリザベス』の鑑賞記を読んで頂いても判る通り、イングランド,スコットランド,アイルランドは、隣り合っていながら、民族問題と宗教問題が歴史的に複雑に絡みあった土地柄で、それが原因で多くの血も流されてきました。単にカトリックとプロテスタントというだけでなく、イギリス国教会という特殊性と、英国内だけでなく、ヨーロッパ全体における覇権争いが更に混迷を深くしました。
アイルランドはカトリックの国ですが、権力を持ったイングランドがプロテスタントの旗を掲げて、アイルランドを治めてきた背景があります。
そんなアイルランド在住のイングランド人を”アングロ・アイリッシュ”と呼び、彼等は、植民地アイルランドで特権的な栄華を極めたのです。
トレヴァー家はそんな人達の末裔ですが、親の世代でそんな栄華は既に昔の話、彼の父親は貧しい銀行員でした。
こんな立場から、彼の”小説的視線”はできあがっているように思えます。
周りは殆どがカトリックのアイルランド人、その家庭や人達を、少数派のプロテスタントでイングランド人である自分は、ある距離を置き外から覗き込むような感覚で捉えた、この自者他者の根源的な認識の性癖は、無理からぬ形成ではあります。
トレヴァーの作品は、こんな背景を把握した上で読むと、それがあちこちでスパイスになっている事に気付かされます。
とは言っても、彼を民族主義的な作家と考えるのは全くの誤りです。
表面的な主義主張というのでなく、人間を意識よりもっと深い底で捉えて離さない、自然や神秘の力、大きな影響力、そういったものへの共感へ、トレヴァーのアイルランドでの半生は姿を変えて顕わされていくのです。
例えば『聖母の贈り物』では、「聖母に見込まれた運命を受け入れあぐねてもがく男の内面のドラマ」(栩木伸明 訳者あとがき)というところに迄変容をきたしているし、『マティルダのイングランド』では、第1次2次大戦が及ぼした、世代をも超える人間への底知れぬ影響が描かれる事になります。
『丘を耕す独り身の男たち』では、過疎化が進んだ農村の後継ぎ問題、嫁にくる女性もいないという社会的現象を、リアルに時に滑稽に描いているように見せながら、最後の数行で、それがもっと大きな神話的とも言える変貌を遂げます。
最終部分をそのまま書き写すと・・・
「父の死と、その死が母に与えた喪失感は、この土地に原初から刻み込まれていた運命の一局面に過ぎず、きらりと輝いて消えるだけの意義しかもっていなかった。永劫不変の姿をさらす丘また丘は、その風景の一部におさまるもうひとりの男がやってくるのを、辛抱強く待ち続けていたのである。」
最初から読み進めてきた者にとって、最後のこの数行は驚くべき変容です。
「もうひとりの男」とはこの父母の末息子です。生まれ故郷の「丘」を離れ、あちこちの町で働いている兄弟の中で唯一独身、父の葬儀に参加する為に、他の兄弟達と伴にそれぞれ帰ってきます。そして、兄や姉は、葬儀が済めば町に戻っていくが、彼だけは家に残る。経済的な意味では成り立たない、嫁に来てもない。しかし、まるで「この土地に原初から刻み込まれて」決定付けられていた事のように、彼1人が、老いた母と古い家に残る事になります。
短編集と言いながら、起承転結の構造が堅固に組まれており、長編の持つ重さや深い人生が感じられ、凝縮された長編小説という感じが強くします。
ログインしてコメントを確認・投稿する