■愛は惜しみなく
●私にとって、「愛は惜しみなく与えるもの」でなく、
「惜しみなく奪うもの」であった。
「好きだ」ということは「愛する」ということではない。
私は、好きだからこそ求めずにはいられなかった。
「理解」を激しく求め、「愛」を惜しみなく奪わずには
いられなかった。
そんなとき、妻は泣いた。これ以上、何を「愛」の証として
見せればいいのか。妻は、その無念に泣いた。
●若い日は、そうだった。そんなことを、何回も何回もくりかえした。
「愛」はどこに生まれ、どんな形をしているのだろう。
「愛」とはなんだろう。西洋から来たこの言葉は私を悩ませる。
「愛」などというものが、まるで「観念」として実在するかのように
思わせる。
●「愛(いと)しく、慈(いつく)しむ」ことと、古来からの言葉を
借りて、「慈愛」と書いたならば、すこしは身近に感じることができる
のだろうか。
「家の中」のことを考えるとき、私は「土佐源氏」を思い出す。
土地の古老が語った「あんたも、女をかまうたことがありなさるじゃろう」
という声が聞こえる。
そんな思いをコミュニィティ「宮本常一」に書いた。
いまでこそ、私の女房は雷神のごとく
「強い」ですが、
まだまだ女性・女の人が
わかってない頃、
いや、今以上に、女がわかってない頃、
私は何度も妻を泣かせました。
浮気やバクチや酒でではありません。
彼女を「理解」していないということで
彼女を泣かせました。
「あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。
女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちに
なっていたわってくれるが、男は女の気持ちになって
かわいがる者がめったにないけえのう。とにかく、
女だけはいたわってあげなされ。かけた情は
忘れるもんじゃァない」
身につまされる話です。
・宮本常一「忘れられた日本人」/岩波文庫 青164-1
P157「土佐源氏」から
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