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2006年03月19日20:37

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●寄り道ついで (83)/■家の中(8)

■愛は惜しみなく

 ●私にとって、「愛は惜しみなく与えるもの」でなく、
  「惜しみなく奪うもの」であった。

  「好きだ」ということは「愛する」ということではない。

  私は、好きだからこそ求めずにはいられなかった。
  「理解」を激しく求め、「愛」を惜しみなく奪わずには
  いられなかった。


  そんなとき、妻は泣いた。これ以上、何を「愛」の証として
  見せればいいのか。妻は、その無念に泣いた。




 ●若い日は、そうだった。そんなことを、何回も何回もくりかえした。

  「愛」はどこに生まれ、どんな形をしているのだろう。
 
  「愛」とはなんだろう。西洋から来たこの言葉は私を悩ませる。

  「愛」などというものが、まるで「観念」として実在するかのように
  思わせる。




 ●「愛(いと)しく、慈(いつく)しむ」ことと、古来からの言葉を
  借りて、「慈愛」と書いたならば、すこしは身近に感じることができる
  のだろうか。


  「家の中」のことを考えるとき、私は「土佐源氏」を思い出す。
  土地の古老が語った「あんたも、女をかまうたことがありなさるじゃろう」
  という声が聞こえる。

  そんな思いをコミュニィティ「宮本常一」に書いた。






    いまでこそ、私の女房は雷神のごとく
    「強い」ですが、
    まだまだ女性・女の人が
    わかってない頃、
    いや、今以上に、女がわかってない頃、
    私は何度も妻を泣かせました。


    浮気やバクチや酒でではありません。

    彼女を「理解」していないということで
    彼女を泣かせました。

     「あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。
      女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持ちに
      なっていたわってくれるが、男は女の気持ちになって
      かわいがる者がめったにないけえのう。とにかく、
      女だけはいたわってあげなされ。かけた情は
      忘れるもんじゃァない」


    身につまされる話です。


     ・宮本常一「忘れられた日本人」/岩波文庫 青164-1
      P157「土佐源氏」から




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