■個性
●いろいろあって、もう思い出すこともできない。
我が家に起きて、よそでは起きないこともあるにはあった。
が、それとて、苦労と言えば苦労、災厄と言えば災厄ではあるが、
それはどこにでもあること。
私だけに起きることではない。
数の多い少ないはあっても、問題は、それにどう対処するか、
どう乗り越えるかだ。
それが人により異なるということだろう。
●私は惑い、頭をぶつけ、悩み、耐え、ただ立ち向かうしかなかった。
世知に長けず、度量もなく、大人になれていない私は、ただ
自分の「青臭さ」と「意地っ張り」みたいなもので、やるしかなく、
ほかに何の能力も持ち合わせもなかった。
人より多かったことと言えば、悩むことくらいか。
●「10年連用日記」を買ったのは、そんなこともあってのことだろう。
はじめて「3年連用日記」を買ったころ、私は自分が前年・前々年と
比べてどう変わったか、1年前・2年前の同じ日に、自分は
何を考えているか、それを見たかった。
しかし「10年連用日記」を買うころは、この「日記」が
何も書かれず、空白であることを願った。悩みをもてあまし、
「日記」を書かずにはおれないようなことがないようにと。
■
日記について
●私は、大胆に言ってみようと思う。
もし「個性」というのがあるとしたら、それはその人がもつ
特別な能力や恵まれた資質のことを言うのではない、と。
私は思う。
生まれつきの「性格」や「能力」は、それが人とどんなに違い、
人より優れようと、それは「個体」の違いにすぎないのではないか。
同じ種(たね)でも、種の落ちる場所は異なる。
日のあたる場所・あたらぬ場所があるように、同じ種でも
落ちた場所で、それぞれにそれぞれの花を咲かす。花、咲かぬことも
ある。
強い種、弱い種があるだろう。が、それは「個体」のこと。
しかし、たまたまの「偶然」で落ちた場所に、根を張り、茎を伸ばし、
葉を茂らせて、花を咲かせようとするのは、その落ちた場所を
自分の「持ち場」と考え、そこで生きようとする、その種の意志・
生命力という「個性」ではないのか。
もし「運命」というものがあるとすれば、その「運命」を全うする力
こそ、「個性」と呼ぶにふさわしいのではないか。
そして、その私の「個性」のことだが、それはあまりにも未熟だった。
ただ、自分だけが視野の中にあり、ほかは何も見えない自分が
そこにあった、ような気がする。
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