■ひげ (急)
●生協に入って3年目、1971年に私の「ひげ」と「詩の会」と、
そして主任試験のボイコットがはじまった。
灘神戸の場合、中卒で入所10年目、高卒で7年目、大卒で
3年目になるときに、最初の昇進試験「主任試験」が行われた。
私が採用された年の2、3年前あたりから、生協でもようやく
新規大卒者を定期的に10名前後、採用するようになった。
大卒の場合は、ほぼ3年目に昇進試験をパスして「主任心得」となり、
本部や店舗に配属された。
●主任試験の「ボイコット」?、どうしてそんなのが戦術になるのか。
自らを兵糧攻めしてなんの得があるのか。
反撥で、1年、2年、昇進試験を受けないことはあるだろう。
しかし、私の場合、一生「四畳半生活」をするように思っていたと
同じように、一生「ヒラ」で過ごすことを考えていた。
妻が言うように、私は「ヤバイ人」だった。
「ヒラでも、生きていける」ことを立証しょうと、本気で考えて
いた。
●そんなことをしてなんになるのか。でも、私は、それから毎年、
定期的にやってくる昇進試験のたびごとに、「逃げ回るようにして」
ボイコットした。
主任試験を受けなくなってから、3年目ころだったか、私は
1年間の労組専従を、あまりに「過激」だったために放逐され
配送センターに異動になっていた。
所属長は、「頼むから受けてくれ」と懇願した。人事部から
も電話があり、受けるように言われた。また、なぜ受けないのか、
その理由も聞かれた。
●私は、ただ逃げ惑っていたにすぎない。企業における「昇進問題」を
飛び越せなかったにすぎない。かっこいい「ボイコット」では
ない。
それでも、私は昇進試験を拒否続けた。人事部長に呼ばれ、
専務にも呼ばれた。しかし、行かなかった。行かなくても
話の内容はわかっていた。
人事部長には、私の思いの一端を手紙に書いた。
●もう30歳を越し、35歳になろうとしていた。
私は、5、6人でやっている「G討」(グループ討論)と命名した
「反執行部」の労組活動に没頭していた。
帰省した際、妻の実家に寄ると、義父は私のことを心配した。
宮崎の警察署長も勤めた義父は、「労組もいいかげんにして
おかんと」と言った。もう子供も3人もありながら、この男は
何を考えているのか、そう考えたに違いない。
●そんなときでも、義母は「ヒロヒコさんには、ヒロヒコさんの
考えがあるんでしょう」と言った。
配送センターで、孤立無援の戦いを続けていた。執行委員長選挙に
毎年立候補し、500〜600票の固定票を確保し、毎年
落選した。
企業からも労組からも「敵」として処遇された。
企業内幽閉みたいな、一日誰とも口をきかないような仕事も
あった。「ひげ」の「過激派」は私のことであり、私とは絶対
話をするな、という命令がくだっていた。
人を介して、副組合長が会いたいと言っている、と言ってきた。
私は、会いに行かないが、もし副組合長が私のうちに遊びに来るのなら
歓迎するといった。もちろん、日のささない二間だけの我が家に
彼が来ることはなかった。
●私に考えがあったのか。
主任試験を受けることが、どうして「転向」になるのか。
でも、そのハードルを私は越えられなくて、主任試験をボイコット
し続けた。
あるとき、配送センターの仲間のひとりが言った。
「どうして、それが裏切りになるのか。お前は主任になっても
裏切ることはない。試験を受けろ」
義母がいったように「ヒロヒコさんには、ヒロヒコさんの
考えが」あったのか、なかったのか。
私は、その友人のことばに泣いた。
ようやく、主任試験を受ける覚悟ができた。
●去年、義母の七回忌で宮崎に帰った。義父も亡くなり、いまは
妻の実家は誰も住んでいない。
義母は亡くなる前、認知症になっていた。妻が世話をしていると
「どなたかよくわかりませんが、ご親切にしていただき、
ありがとうございます」と礼をいった。
元気なとき、義母はおかしなことがあると、口をつぼめて、
「ほぉ、ほぉ、ほぉ、ほぉ・・」と笑った。
決して、自分の力で、ここまで生き延びてきたわけではない。
義母の笑い声のような、多くの力によって、生かされ、私は
まだ生きている。
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