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2006年03月12日17:59

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●寄り道ついで (73)/■続・義母(1)

■ひげ(序)

 ●1969年3月に「上甲子園支部」に配属になり、私は国鉄・
  甲子園口駅の北側、二見町、天道町、中島町を中心に、黄色の
  大きな自転車に乗り、毎日、雨の日も風の日も、約50軒の組合員の
  家を御用聞きしてまわった。
  車掌さんが使うカバンを首にぶらざげ、持ち出しの商品をかごに詰め、
  一軒・一軒、注文をとりながら、このあたりを走った。


 ●その年の9月、結婚するまでは支部に併設されていた「寮」で
  暮らした。寮は全員、男で、昔の学生寮のような雰囲気があった。
  結婚して、駅の南側の甲子園口三丁目の「第2カナリヤ荘」に
  移り、配属も「コープ甲子園口南店」にかわった。



 ●店に配属になって、私は店長から注意された。「ヒゲをそりなさい」
  というものだった。
  私はあまり体毛の多いタイプではなく、それまで月一回の散髪の
  ときに、ヒゲをそってもらうだけで、自分でヒゲをそるということ
  はほとんどなかった。あるとき、支部でブラウンの髭剃りを
  取り扱い、売上げ上位者に景品としてその髭剃りをくれたことがある。
  私ももらったが、自分には用がないので支部の仲間にやった。


 ●そして、二、三日か一週間たって、また店長から同じ注意を
  受けた。そのときは、うっかりして剃り忘れたか、次の散髪まで
  と思って先延ばしにしていたのかも知れない。

  しかし、店長はある特別の意味をこめて私に注意していることは
  わかった。それは、小部屋に呼ばれて注意をされ、しかも
  ヒゲだけのことでなく、私の考え方についても質問したり
  注意し、指導したり、私の将来についてもいろいろ言ったように
  思う。


    ・・・




 ●それには、わけがあった。
  店舗に異動になる前、私はすでに「保護観察・要注意」になって
  いた。
  

  生協にはいって半年過ぎたあたりから、私は生協の運営に
  異議申し立ての行動を始めた。きっかけは、上甲子園支部で
  おきた「懲戒解雇事件」だった。

  私は、「就業時間前のかご詰め作業」のボイコットをし、
  それは支部に広がった。支部長は言った。
  「お前たちの言っていることは正しい。しかし、やる気があったら、
   朝の15分、20分のただ働きはなんでもない」



  また、連続して3日の年休を申請した。このときも、支部長は
  言ってきた。「石場くん、話合おうじゃないか。年休を与えない
  わけじゃない」。どうして、年休がほしいのか、支部長は聞いた。
  どこかへ行くのか、なんの用事があるのか、と聞いた。
  「何も用事はありません。ただ、権利だから連続3日の年休が
  ほしいのです」


  私の返事は、すぐ本部に伝えられ、支部運営部長の大和田部長は
  菓子折りをもって、四畳半一間の「第2カナリヤ荘」の私の家に
  来た。

  「どうした、石場くん。なにかあるんか」とニコニコして切り出してきて、
  私の行動の真意を知ろうとした。


 ●妻は、四畳半一間のそうじはすぐに終わるので、「私も仕事を
  したい」ということで、当時、もう生協の嘱託として本部の
  支部運営部に勤務していた。大和田支部長は妻の上司でもあった。


  しばらくして、小野教育部長や大和田支部運営部長が本部のある
  住吉で、妻と私のために一席をもうけてくれて、「今夜は石場くんの
  話を聞こうじゃないか」と、慰労してくれた。その晩、私は
  あまり飲んだことのない酒を大いに飲み、酔っ払った。

  宴がひけ、妻に介抱されながら、部長が手配してくれた帰りの
  タクシーに乗り、乗ったとたん私はゲロを吐いた。

  私は初めてのゲロを吐き、ゲロはタクシーの中いっぱいに飛び散った。



 ●それでも、私はかわらなかった。支部で一人になりながら、朝の
  かご詰めボイコットを続け、ついに家庭係からおろされ、
  区域なしになり、甲東園から浜甲子園まで、国鉄・甲子園口駅の
  南北5キロの区域を、ひとの区域を応援するために、毎日、
  自転車で走りまわった。



  そして、この年、最初の主任試験があったが、それもボイコットした。


  そんなことがあって、私は「コープ甲子園口南」に異動になったのだ。


  (つづく)


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