■ひげ(序)
●1969年3月に「上甲子園支部」に配属になり、私は国鉄・
甲子園口駅の北側、二見町、天道町、中島町を中心に、黄色の
大きな自転車に乗り、毎日、雨の日も風の日も、約50軒の組合員の
家を御用聞きしてまわった。
車掌さんが使うカバンを首にぶらざげ、持ち出しの商品をかごに詰め、
一軒・一軒、注文をとりながら、このあたりを走った。
●その年の9月、結婚するまでは支部に併設されていた「寮」で
暮らした。寮は全員、男で、昔の学生寮のような雰囲気があった。
結婚して、駅の南側の甲子園口三丁目の「第2カナリヤ荘」に
移り、配属も「コープ甲子園口南店」にかわった。
●店に配属になって、私は店長から注意された。「ヒゲをそりなさい」
というものだった。
私はあまり体毛の多いタイプではなく、それまで月一回の散髪の
ときに、ヒゲをそってもらうだけで、自分でヒゲをそるということ
はほとんどなかった。あるとき、支部でブラウンの髭剃りを
取り扱い、売上げ上位者に景品としてその髭剃りをくれたことがある。
私ももらったが、自分には用がないので支部の仲間にやった。
●そして、二、三日か一週間たって、また店長から同じ注意を
受けた。そのときは、うっかりして剃り忘れたか、次の散髪まで
と思って先延ばしにしていたのかも知れない。
しかし、店長はある特別の意味をこめて私に注意していることは
わかった。それは、小部屋に呼ばれて注意をされ、しかも
ヒゲだけのことでなく、私の考え方についても質問したり
注意し、指導したり、私の将来についてもいろいろ言ったように
思う。
・・・
●それには、わけがあった。
店舗に異動になる前、私はすでに「保護観察・要注意」になって
いた。
生協にはいって半年過ぎたあたりから、私は生協の運営に
異議申し立ての行動を始めた。きっかけは、上甲子園支部で
おきた「懲戒解雇事件」だった。
私は、「就業時間前のかご詰め作業」のボイコットをし、
それは支部に広がった。支部長は言った。
「お前たちの言っていることは正しい。しかし、やる気があったら、
朝の15分、20分のただ働きはなんでもない」
また、連続して3日の年休を申請した。このときも、支部長は
言ってきた。「石場くん、話合おうじゃないか。年休を与えない
わけじゃない」。どうして、年休がほしいのか、支部長は聞いた。
どこかへ行くのか、なんの用事があるのか、と聞いた。
「何も用事はありません。ただ、権利だから連続3日の年休が
ほしいのです」
私の返事は、すぐ本部に伝えられ、支部運営部長の大和田部長は
菓子折りをもって、四畳半一間の「第2カナリヤ荘」の私の家に
来た。
「どうした、石場くん。なにかあるんか」とニコニコして切り出してきて、
私の行動の真意を知ろうとした。
●妻は、四畳半一間のそうじはすぐに終わるので、「私も仕事を
したい」ということで、当時、もう生協の嘱託として本部の
支部運営部に勤務していた。大和田支部長は妻の上司でもあった。
しばらくして、小野教育部長や大和田支部運営部長が本部のある
住吉で、妻と私のために一席をもうけてくれて、「今夜は石場くんの
話を聞こうじゃないか」と、慰労してくれた。その晩、私は
あまり飲んだことのない酒を大いに飲み、酔っ払った。
宴がひけ、妻に介抱されながら、部長が手配してくれた帰りの
タクシーに乗り、乗ったとたん私はゲロを吐いた。
私は初めてのゲロを吐き、ゲロはタクシーの中いっぱいに飛び散った。
●それでも、私はかわらなかった。支部で一人になりながら、朝の
かご詰めボイコットを続け、ついに家庭係からおろされ、
区域なしになり、甲東園から浜甲子園まで、国鉄・甲子園口駅の
南北5キロの区域を、ひとの区域を応援するために、毎日、
自転車で走りまわった。
そして、この年、最初の主任試験があったが、それもボイコットした。
そんなことがあって、私は「コープ甲子園口南」に異動になったのだ。
(つづく)
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