朝日カルチャーセンターの講座に行ってきました。
講師は村岡倫先生(龍谷大学)。
昨年NHKアニメ「マルコ・ポーロの冒険」が一部復刻放送されたため、マルコ・ポーロ熱に火がついていろいろ調べたり「東方見聞録」を読み直したりしていましたので記憶が新しい。新たな疑問も生まれましたので、こういう講座を見つけて飛びつきました。
マルコ・ポーロは「東方見聞録」が有名過ぎて当たり前に存在しているように思いますが、歴史研究としてはかなり特殊な事情があります。と言いますのは、マルコ・ポーロに関する客観的史料がほとんど存在しない。通常歴史上の人物は、いくつもの史料を調べて人物像や事績などを検証するものです。しかしマルコ・ポーロは「東方見聞録」と言う自著(厳密には口述筆記)があるだけで、検証のしようがない特殊な人物だということです。
だもんで、マルコ・ポーロは実際に中国まで行っていない、せいぜいポーロ一家が商売をしていたイスタンブル止まりだ、とか、マルコ・ポーロは実在の人物ではなく「東方見聞録」は何人もの人が書いた東方事情をつなぎ合わせたものだとかいう説まで出てきます。
さて、そこでヴェネチアの国立古文書館の文書を調べた人がいます。
そこにはポーロ一家に関する文書がいくつかあります。それをつなぐと、ポーロ一家の系図がいくらかわかります。マルコの祖父に当たる人、父ニコロにはマテオ以外にも兄弟がいたことなど。また、ニコロとマテオがしばらく留守にしていたこともわかります。
そして、マテオは遺言状を残していました。
そこに記された「庶子」と「その母」の記述が、どうもモンゴルの現地妻とその子供を連れて帰ってきたように読めるそうです。そして、遺品として「三つの黄金の牌」と「三つの絹のカーテン」の記載があります。
黄金のパイザだ!!モンゴル帝国の通行証だー!ずっと持ってたんだー!
更にマルコ・ポーロの遺言状もあります。
ここには東方への旅を思わせるような記述がありません。なので、ベネチアに「マルコ・ポーロ」という商人がいたのは確かだが、それが元まで行ったのかどうかまでは確証がない、などと言われるのです。
ただ、一つ気になる記述は「タルタル人の我が奴隷ペトルスを解放する」と書いてあることです。もしや元からモンゴル人を連れてきた?
更に、マルコの遺品目録があります。それを見ますと東方とのつながりのあるものがいくつか出てきました。
「大きな金の命令の牌」…黄金のパイザだー!ずっと持ってたんだー!
「カタイの白薄絹地」「カタイの黄薄絹地」「タルタル風刺集のカヴァー」、そのほか宝石や金糸の織物や毛織物、馬の手綱など。
マテオもマルコも持っていた黄金のパイザ。これがどれだけ東方への旅に重要なものだったか…。黄金としての価値もあるかもしれませんが、旅の時に役に立ったことやフビライの通行証を持っていた誇りなど、さぞ思い入れのある品だったことでしょう…というのは私の妄想。
ということで、マルコ・ポーロと言うベネチアの商人は実在していたし、東方へ行ったことも確かだろう、ということは認められました。
さて、次は「東方見聞録」です。
「東方見聞録」は、祖本は見つからず、直接の写本もなく、本による異動が大きいです。同じ写本を写したとは思えない異動の大きさ。
その原因として、もともと厳密な「原本」というものはなかったのではないか、と考えられるそうです(!)
そもそもは、マルコがジェノヴァの牢獄に捕らえられていた時に周りの囚人たちに語った話が面白いので、たまたま同じ牢にいた作家のルスティケロがそれを書き留めた…というわけですが、なにしろ牢獄でのことですし、1冊のまとまった旅行記を書こうとはどちらも思っていなかったのかもしれません。
しかしそれがたまたま出版されることになり評判を呼んだ。印刷術のない時代ですので、基本は手写本。
ということで、人気が出たからマルコ自身も付け加えたりしたこともあったかもしれませんし、出版社が手を加えた可能性もあります。
そもそも著作権もない、人の書いたものをパクっても盗作と言う概念もない時代です。出版社は競って「東方見聞録」を出したのみならず、「ウチの出版した本の方がおもしろい」という触れ込みで手を加えたようです。逆に、長いから読みやすいように短くぶった切ったり。
その中で、明らかに後の挿入だと思われる部分があります。
例えばアフマドという、元にいたイスラム教徒官僚が不正をしてそれを恨んだ漢人に暗殺された事件。
この事件は17世紀に成立した本にのみ入っているものです。そして、その元ネタとしては、イル・ハン国でペルシア語で書かれたラシードの「集史」があります。この本に書かれたことがそのまま書いてあるのみならず、誤った部分まで同じように書いてあるとか。
当時、ヨーロッパではイスラム諸国への関心が結構高くて、「集史」などペルシア語文献が読まれていたりしたそうです。
え〜〜〜、じゃあ、「マルコ・ポーロの冒険」の「アクマッドの最期」の話は〜〜?そこにいなかったの〜?
あとは、元の新兵器の巨大投石器がマルコ・ポーロがフビライに教えた、という記述がありますが、それは明らかな誤り。この投石器はマルコが元に到達する前にすでにイスラム教徒から伝えられて使われていました。
そのほかペルシア語の元ネタ本があったのだろうと想像できる記述がいくつも見られます。
それから、黄金の国ジパングの記述について。
遣唐使の昔から、日本は中国へ行くのに砂金を持たせていたそうな。特に遣唐使すなわち国費留学生は、行ったらいつ帰れるかわからない。なので長年の滞在費を賄えるように相当な額に当たる砂金を持って行ったそうです。
この辺のことについては、私も去年マルコ・ポーロのことを調べていた時に日記に書きました。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985015302&owner_id=1362523
あと、ジパングでは捕虜になって身代金が支払われないとその肉を食べてしまう、という記述があって、「どういうこっちゃ」と思っていたのですが。
これもおそらく後の挿入で、当時のヨーロッパでは東方の遠〜〜〜い国には異形の人間や人肉食をする、というイメージが一般的にあったそうな。異形と言うのは、目が縦に二つ付いていたり、首が無くて胸に目鼻が付いているとか、奇妙な人間の姿を書いた絵がよくあります。なので遠い国のイメージの「お約束」みたいなものを入れてみたんだろうと。
最後に、この先生が「概説中国史」という本のコラムに載せたことが書いてありました。
マルコ・ポーロはヴェネチアの文書記録からも実在して東方に旅をした人物だと認めることはできる、しかしなぜ中国側に記述が全く見られないのか。それは、当時は遠隔地貿易が盛んで、西方から中国を訪れる商人はたくさんいた。マルコがフビライ・カーンに重用された、と言う部分が創作か、ちょっとホラを吹いた部分で、記録に残るような重要人物ではなかった。…ということではないか。
そして、中国へ行った他の商人たちもいて、その人たちの体験談が、「東方見聞録」を出版する際に内容を面白くするために混ぜられるようになったのではないか。
そもそも「東方見聞録」を見ますと、一人の人の体験談にしては内容が盛りだくさん過ぎる。複数の人の体験が混ざっている、というのは確かなのではないか。
なるほど〜〜〜。
マルコ・ポーロの実在から、「東方見聞録」の成立と展開、そして中国側に記録が残っていないことなど、今まで疑問に思っていたことがスッキリわかりました。
あー、おもしろかったー。
ついでに。
去年書いた日記で「東方見聞録」の成立について書いたやつ。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985065001&owner_id=1362523
フランス文学としての「東方見聞録」
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985331309&owner_id=1362523
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