mixiユーザー(id:1362523)

2023年06月23日01:04

85 view

中世フランス文学としての「東方見聞録」

「マルコ・ポーロ 東方見聞録」
月村辰雄・久保田勝一 訳
岩波書店

新しく「東方見聞録」を買ってしまいました。といっても刊行されてから10年以上たっていて品切れになっているので、古書店で買いました。古書もネットで買える時代です。
現存する一番古い写本からの翻訳です。原本は古フランス語。

「東方見聞録」は、印刷以前の手写本の時代の本ですが、写本でもかなりいろいろの種類が残っています。原本は失われています。そして、現存する写本を検証したところ、原本からの直接の写しもないようです。内容の異動を考えると、同じ本を写したとは考えられない、いずれも異なる写本から写されたと考えられるからです。
それらの写本の中でも特に古くて重要なものがいくつかあるのですが、やはり内容に異動があります。それを寄せ集めて「集成本」が作られましたが、それが英訳され、その英訳をもとに翻訳をしたのが東洋文庫版です。なので各テキストの異動についての注釈も詳しく、集大成ともいえる訳業です。

それに対して、最も古いとみられる写本を訳そうとした理由は何か。
それは、「東方見聞録」が、当時の人によってどう読まれたかを探るためです。
東洋文庫版は東洋史学者によって検証されたもので、私も東方見聞録の研究は東洋史の範疇に入ると思っていました。
確かに、内容の検証は東洋史の研究として行われてしかるべきです。

岩波の「東方見聞録」は、実際にこの本の読者であった中世ヨーロッパの人たちがこの本をどう受け入れたか、何を期待して読んだのか、ということを解き明かそうとしたものです。
訳者の二人は中世フランス文学の研究者です。中世フランス語で書かれたテキストが何を表しているのか、を読み解く専門家です。
この時代は十字軍の時代です。ヨーロッパの目が東方に向いていました。聖地に作った国も存在していました。聖地として、あるいはまた貿易の対象として、東方の情報が望まれていました。

この本の原本は、フランスのヴァロワ伯の臣下がベネチアへ行った時にマルコ・ポーロから写本を受け取り、それを持ち帰ったのちに浄書してヴァロワ伯に献呈したということです。この時点で、原本からの「写しの写し」になっているわけです。
そしてさらにこの本をもとに、たくさんのミニアチュールが挿入された豪華本が作られました。この時点で写しの写しの写し…ぐらいになっています。文字や装飾が美しく、ミニアチュールも多数。しかし、ミニアチュールを描いた人は東方のものを見たことがない。結局ヨーロッパの風景みたいな絵になっています。この岩波版ではミニアチュールも白黒とはいえたくさん収録されています。

そして、訳者の方針としては、あくまでも当時の人たちが読んだような感覚を復元すること。
その例として、紙幣の説明があります。元では紙幣が発行されていたことはよく知られています。しかし、中世ヨーロッパでは貨幣は金や銀など実際の価値に対応したものが流通していました。紙幣という概念すらありません。現代の私たちには「紙幣」という言葉を用いれば即座に意味が通じますが、中世ヨーロッパの人にはそうは行きません。紙幣のことを説明するのにかなりまわりくどい説明をしています。
そもそも当時は「紙幣」という言葉すらない。かろうじて「証書」に近い言葉が使われています。そこで訳者はこれを「紙幣」と訳さず、「証書」という言葉で通しています。この地域には証書を通貨に使っている、といえば元の支配領域を表すこともできます。

こうしてこの岩波版の訳本を読んだ印象は、東洋文庫版とはまた違ったものになっています。東洋文庫版は英語からの訳ということもあり、原文の文体をあまり考慮に入れることがなく、事実をそのまま記述したような書き方になっています。しかしこの岩波版を読むと、それよりも物語風な語り口になっています。さらに、フビライの宮廷や珍しい地域の物事を記述するのに、かなり大げさな表現、過大な数字が挙げられ、「ホンマか?」とツッコミを入れたくなるほどです。さらにヨーロッパの文物から離れることのないミニアチュールがたくさんあるので、東方に実際にある国というより、ヨーロッパで夢想した架空の国の旅物語のような感じがより強くなっています。

さらに、この岩波版には地図がない!
確かに、当時は世界地図と言うものなどありませんし、地図上でマルコの旅程をたどって読む、ということはできませんでした。これもまた、当時の人たちが読んだ感覚に近づくためでしょうか。地図無しで「東方見聞録」を読むのもまた興味深いことです。

で、東洋文庫で該当の記述を付け合わせてみますと、誇大な表現がそれほど大きく変わっているわけではありません。しかし東洋文庫版はいちいち中国(あるいはモンゴル)の史料に当たり、裏付けを取り、検証をしているので、多少数字を大きく見せてはいるものの、概ね当時の状況に沿ったことが書かれている、空想の話ではない、という印象を持つようになっています。

内容については、大筋はあまり変わりません。一部岩波版にはない項目がありますが、だいたいたどっていった場所、記述の順番も対応しています。記述がない大きなものは、アクマッドの最期、そしてコカチン姫のことです。南海編は、航海に出た事情は書かず、それぞれの土地の記述を並べているばかりです。

あと、地名の表記がかなり違っています。東洋文庫版ではそれぞれの写本での表記が注釈に書いてありますので、岩波版のもとになるフランス語写本での表記も記してあります。しかしこのフランス語写本の表記は他の写本より実際の地名との音の差が大きい。特にフランス語の読み方を基準にしていますので、ますます離れます。それにつきましては、当時のフランス語のつづりの特徴、特にフランス語しか知らない写字生(写字生ぐらいの読み書き能力があるとラテン語ぐらいは読み書きできるとは思いますが)が書き写したのでこうなった、という説明も少ししてあります。やはり古フランス語はまだ正書法が確立しておらず、表記の揺れもあって、こういう風に変化しやすい、とか。

物語風の語り口、豊富なミニアチュール、フランス語風に変化した固有名詞。
こういったことで、かなり印象が変わるものです。岩波版を読むと、「東方見聞録」が空想の本だと思われるのも無理はないという気がしました。

また、あとがきにはマンデヴィルの「東方旅行記」のことにも触れています。これは「東方見聞録」よりも50年ほど後に成立したものですが、中東あたりのことはまだしも、それより東方に行くとそれこそ荒唐無稽な空想の記述ばかりです。それと比べれば、「東方見聞録」は実際に現地に行ったのでなければ書けない内容に満ちています。当時はどれほどの区別がされていたのかわかりませんが、マンデヴィルの「旅行記」に比べると、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の知名度は圧倒的に高く、それはやはり内容の具体性によるものではないかと思います。

それから、あとがきにはさらに興味深いことが示されています。
ポーロ一家がヴェネチアと元を往復した時代は、中央アジアが史上まれにみる平和な時代だったこと。モンゴルは世界に広がる帝国を作りましたが、そのためこの地域の通行が容易になりました。クビライ・カーンの「黄金のパイザ」を持っていれば通行の安全はもちろん、必要な物資も提供されました。この時期にちょうどヴェネチアと元を往復したというのは、幸運な偶然でした。しかし、マルコが元にいる間に情勢が変わっていきます。モンゴル帝国は分裂し、争いが起きます。イル・カン国に嫁ぐことになったコカチン姫は、最初陸路を取りました。しかし戦乱で危険な目に遭い引き返してきます。(「マルコ・ポーロの冒険」では、コカチン姫は「こんな恐ろしい旅は二度と御免です!」と言っていました)。そのころには陸路は安全ではなくなっていたのです。そのため南海路を取ってイル・カン国に行くことになりました。

つまり、ポーロ一家は中央アジアが安全に通行できた時代に元に行き、安全ではなくなったため南海路を取り、結果的に当時の世界を広範囲にわたって旅をすることになったわけです。さらに、ジェノヴァの牢獄でルスティケロに出会ったために、自分の旅の記録を本にまとめることができました。
「東方見聞録」は、このわずかな時代の隙間に生まれた奇跡の書ともいえるのです。

さらに、ルスティケロはイングランド国王エドワードに同行して十字軍に赴き、アッカに滞在していたことがあるそうです。ちょうどマルコがニコロとマテオに連れられてヴェネチアを出発し、新教皇の選出を待ってアッカに滞在していた時期と重なるそうです。ということは、二人がここで出会ったことはあるかも?そして、ジェノヴァの牢獄で再会して「あー!!」ということに…などというのは、証拠も確証もない単なる空想です。
3 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2023年06月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930