mixiユーザー(id:60260068)

Javascript の設定が無効になっているため、一部の機能を利用できません。

詳細はヘルプをご覧ください。

2024年02月08日23:54

11 view

Reライフ文学賞落ちましたよ②

『白く、木蓮の花』----前編----はこちら
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986932313&owner_id=60260068
-------------------------------------------

『白く、木蓮の花』----後編----

　ハードカバーの無地のノートに短歌が一首書かれていた。

　高嶺の白木蓮の咲く頃に香る気色も風に散りゆく

「へえ……、」
　松尾の心の中の青年が見えた気がした。まだ出会って数日だが、掛け替えの無い友人を得た事でしみじみと幸せを感じていた。
「いや、分かるよ、へえ、松尾ってロマンチストなんだなあ。ああ、何だか嬉しいよ、わざわざ持って来てくれてありがとう。」
　松尾は、頭を掻きながら、顔を掌で覆いながら、落ち着かない様子で、また、ノートを指差した。
「昨日の帰り、俺、変だっただろ？これが理由だ。」
「え？」
「分かるだろ？あんた、筋書きを練る人だから。」
　思い出した。処分保留の案件だ。
「……そうなのか？」
「……ああ。」
　しきりに動いていた彼の手がソファーの上に落ち着いた。
「あ、じゃあ……何か理由付けてハイキングは……」
　松尾が私に目を合わせて来た。
「いや、行こう。俺、もうこんな機会は無いと思ってた。一生に一度で良い。まともに恋を打ち明けたい。こんなジジイが言う事じゃないかもしれんが、多分このままじゃ死ぬ間際まで後悔して、自分がなさけなくてやりきれないと思う。今でもそうなんだが。あんたと出会えて、俺の人生、これからのような気がして……ごめん、何だかすまん。」
　久しぶりのもらい泣きで言葉が詰まった。私は涙を拭いながら彼に言った。
「打ち明けてくれてありがとう。嬉しいよ。ああ、俺、この村に来て良かった。ほんと。」
　二人とも泣きながら笑い合った。
「で、松尾、ところで、和子さんと寿美江さんのどっちだ？」
　松尾の泣き笑い顔が凍りついた。
「ば、馬鹿野郎！おまえ、何言ってんだ！？ちょっと、」
　悪ふざけが過ぎたようだ。
「ごめんごめんごめん、あはは、ウソウソウソ、いやいや、分かってるって、ちゃんと分かってる。ごめん、あれだろ？白木蓮、雪の絵を描いたような。」
　松尾は脱力してソファーに崩れて笑い出した。
「テメ、ふざけんなよ！もーう、ああ、本当に馬鹿かと思ったぜ。いやあ、でもありがとう、これであんたに何でも話せる気がして来た。ほんとにばかやろお。」
　可笑しくて、嬉しくて、どっと疲れが押し寄せ、二人とも暫くソファーに寝転がっていた。
　それから私はお茶と煎餅を当てがって、彼がバリバリズルズルやっている間に寝巻から普段着に着替え、再びどっしりとソファーに腰掛けたが、二人、互いに首を傾げ合った。
「だよなあ、取り調べじゃないんだから。外でヤリながら話すか。松尾んち、バルコニー有ったな、村の大自然を堪能しながらっての、良いんじゃないか？」
　彼は嬉しそうに乗って来た。
「おお、いいね、バルコニーが初めて役に立つんじゃねえか？朝っぱらから宴会だあ。」
　私達は家にあるツマミとアルコールを掻き集め、バルコニーで二人だけの暴露大会を始めた。

　松尾の親は生前、林業をやっていて、彼はこの村で育った。学校の成績は優秀だったが、極度の恥ずかしがり屋で、そんな自分を隠す為、乱暴な言動になりがちだった。彼は進学校に通うことになったが、クラスで、親しい友達は居ず、唯一人、同じ村から通学する同級生の雪絵さんだけが時々話しかけてくれていた。彼は直ぐに彼女に恋をした。しかし当時の彼に告白が出来る筈がなかった。卒業後、彼は村に戻り、家業に。彼女は県外へ就職、そして結婚、出産。時は過ぎゆき、彼女の夫は、子供達が独立して早々に他界。一人身の雪絵さんは小さなスーパーをやっている実家へ戻って生活する事に。松尾は遠くから彼女の姿が見えるだけで幸せを感じた。近くに寄るなどという事、ましてや声をかける事など、どうしても彼には出来なかった。粗暴な言動の自分が彼女を傷つけることを恐れていた。松尾は、このまま遠くから見守るだけの人生でも十分幸せだと自分に言い聞かせていたのだ。
　松尾は、彼の記憶に存在する雪絵さんを、長年、ノートに写して来た。つまり、短歌は高校卒業の時に書いた物。そして次のページをめくると、彼が想像したその年代の彼女が描かれ始めた。それは彼女への彼の祈りであるかのように、どの絵も、とても幸せな笑顔に描かれていた。私の頬を、また、涙が伝い落ちていく。私は口ずさんだ。
「彼女は、女神と言うより、とても儚くて、清らかで、そんな彼女の幸せを祈って遠くで見守る君は彼女の守り神で、そんな君も儚げで、だからこそ偽りなく愛らしいんだなあ。」
　私は、アルコールが回って涙もろくなってしまったらしい。松尾は、椅子の背にもたれかかり、青く光る空を仰いでいた。
「松尾は透き通ってて、だから今度は俺が君の力になってあげないと、って思うよ。」
　私がノートを閉じて返すと、
「馬鹿言うんじゃないよ。」と言い、彼はまた、ゆっくりとページをめくりながら言った。
「祈りが通じていれば、彼女はこの村に帰って来なくても良かったんだろうになあ。もどかしい。」
　そして彼はノートを閉じ、部屋に仕舞いに行った。

　私は、缶酎ハイを高く傾けて飲み干し、「フォー！」なんて叫んでみる。やまびこが返って来るわけもないが、耳を澄ます。向こうの山から鳥の鳴く声、あちらの奥ではチェーンソーが〈イヤイヤ〉と音を立てている。自動車の音は全く聞こえない、以前とは全く違う世界で、里帰りのような期間限定ではなく、十年、二十年と暮らし続けて果てていく場所。時がゆっくり流れる気がしながらも、都会での人間関係より深く掘り進むような、それも私は初めから飛ばしている気がして、転居する前に想像していたよりも遥かに濃密な生活を送っていると感じる。この先、どうなって行くのか、とても予想がつかない。
「オッケー、じゃあ今度は吉月の暴露に移ろうじゃないか。」
　松尾が戻って来た。左手に例のノートを持ってにやけている。
「ほうら、お揃いだ。一頁目は短歌を詠んで書いてくれ。吉月がこの世で一番恋した女性の事を。あんたなら、短歌くらい出来るだろ？」
　私はノートを受け取りながら首を傾げた。
「正確に言うと、松尾の口からはまだ、世界一の恋を明かされてはいないんだが……」
　彼がとぼけているのを見て、私は素直にノートの事を考えてみた。しかし、恋に悩んでいる訳でもなく、過去の恋も、今更世界一と冠を載せることもない。どうするか迷っていたが、一つ名案が浮かんだ。
「分かった！いや、分かってない。これならどうだ！松尾と俺の友情を小説にしてこのノートに書く。松尾のノートと同じくらい大切なノートになる。」
　松尾は椅子に腰掛け、少しの間考えて、
「じゃあ、世界最大の恋は？」と訊いて来る。
「松尾の雪絵さん。」と答える。
「クイズじゃあない。」と戯ける。
「んー、高校の時の安田さんかなあ？」と簡単に考えてみる
「淡白なの？」
「いやあ、あるよ、布団に入ると息苦しいやつ。」
「オチが有るのか？」ちょっと冷めた目。
「恋多き青少年だったのさ。」
「なるほど。それも小説に書いてくれ。」
　私の恋を話題にするには時間がもったいない。これからの松尾少年の恋の計画書を描かなければ。唐突だがいきなり切り出してみる。
「問題は車の座席だな。」
　私の言葉を聞いて松尾の動きが止まった。
「ああ、緊張して来た。」
　松尾は椅子に腰掛けたままラジオ体操のような動きになっている。
「お前さあ、あ、お前って言っちゃった。」
「いいよ、俺なんか最初っからずっとあんたって言ってんだからアイコだろ。」
　少しだけためらって、やはり続けた。
「お前さあ、今のこのままの感じで行けば全然イケるじゃん。」
　沈黙の空間に鳥の鳴き声が通過する。松尾は顎を曲げて黙っている。
「要は慣れだな。一度ハイキングに行って〈イヤン、楽しかったあ、また行きましょう！〉って言わせれば良いんだよ。月一のサイクルが出来たら最高だね。」
　松尾は小刻みに頷いていたが、思い直したように、
「あんた、芸達者やなあ。しかしその口調山内だろ。」との指摘。
「なるほど、そうか、お前、友達いないって言ってたが、お前にとって、さん無し山内さんな訳だから、今まで和子さんが唯一の友達じゃん。」
「なーにが、」
　松尾は一旦しかめた眉を額へと戻した。
「いや？そうか、山内は友達だったのか。全然気づかなかった。」
　私は半分肩の荷が下りた気がした。
「あまり心配しなくても良さそうだ。初回は無難な前男、後女かなあ。ま、そんなもんだろう。」

　歳をとった私達にはハイキングの日が来るのはあっという間だった。やはり細胞の動きが遅い私達は、時が瞬く間に過ぎて行くという老若相対性理論が成り立っている。
　世の中はゴールデンウイークという宗教に従い、人々は集団で長い距離を移動する季節だが、村には、よそ者が誰も足を踏み入れないような小ぢんまりした秘境が至る所にある。つまりは、無理して遠くまで行く必要が無い。
　新鮮な風を感じさせる五月の朝。ナビゲーター松尾を拾い、先ずは寿美江さん宅へと導かれる。敷地の入口付近に孫と思われる少年が座っていて、助手席から迎えに出る松尾の姿を見て納屋の方に駆け出した。
「おお、逃げられてるぞ。」
「やかまし。」
　松尾が玄関の辺りまで辿り着くと、右手前の納屋の方から寿美江さんが現れ、いそいそと助手席のドアを開け、
「まあ綺麗な車ねえ、今日はよろしくお願いします。あら、あのジャガイモさんは？」と助手席に腰を下ろしながら玄関の方を見た。
「あら、私を呼びに行ってくれてたのね。」と言っている向こうで松尾が頭を抱えているのが見える。
　そこへ丁度和子さんが現れ、後部座席へと滑り込む。
「俺の助手席が！」と、松尾は、右側に回り込んでドアを開け、少しだけ間を置いて「よし！」と呟き後部座席に乗り込んだ。和子さんは少しお驚き、瞬きを忘れている。松尾は軽く会釈をして、彼女の目をしっかりと見て言う。
「和子嬢が居てくれて助かるよ。あんたが俺の友達だって事、今まで気づいてなかった。俺、奴とあんたしか話せないから、今日は頑張ってみんなと話す。だから協力してくれよ。」
　松尾は顔が次第に赤くなってとうとう下を向き首を傾げた。和子さんも戸惑い、顔が赤らんで、
「ちょっと待って、松尾さんどうしたの？何か変な物食べたんじゃない？おかしいよ、っていうか変な意味じゃないよ？突然だからびっくりするじゃない。」
　松尾は急に顔をあげて、いつものように怒鳴った。
「良いんだよ、俺が頭下げてんだから、素直に〈了解でーす〉とかなんとか言ってりゃあ良いじゃねえか。」
　和子さんは笑い出した。
「何それ、ドッキリ？もうびっくりしたあ、大成功！今までのジャガイモにはこんなことできなかったでしょう？吉月さんの入れ知恵でしょう？」
　車の中が笑いでとても明るくなった。雪絵さんが加わっても、和子さんがなんとかしてくれるんじゃないかと楽観的に思えて来た。
「分かった、分かった、私、協力するわよ。みんなで楽しくやりましょう！いやんもう、今日の松尾さん面白くって楽しみ。」
　松尾は目を瞑って自分に言い聞かせるように、手でリズムを刻みながら言う。
「もし、俺が、暴走したら、止めてくれ、俺は、あんたの、言うことは、聞くから。」
「ラップなの？」
　また大笑いになったので、私が水を差す。
「OK、OK、まだ全員揃わない所で大盛り上がりじゃ、雪絵さんが可哀想だから、早く迎えに行きましょう！」
「賛成！」

　雪絵さんが住む実家の店は、駅前通りにあり、比較的都会と言える。十年ほど前、この村に一本通る幹線道路に、この辺りでは有名なスーパーが出来るまでは、この村で一番大きなスーパーだったようだ。
「わざわざお迎えに来て頂いてありがとうございます。」
　雪絵さんが乗り込むと、中高生のハイキングムードが微妙に大人テイストへと変わった。
「雪絵さん、珍しくパンツルック」「ハイキングだから木に登っても大丈夫なように、スニーカーもうちの店の物を九八〇円で調達。和子さんもいつもと違う気が」「いつもモンペだからね、って言うか雪絵さん木に登るの？」
　ファッションから入りハイキングにふさわしい話題になった所で私も加わる。
「あ、サル年？私申年。」
「申年ですよ。和子さんは？」
「私ひつじ年。」
　寿美江さんが手を上げる。
「はい！私サル！ジャガイモさんは？」
　松尾はふてくされたように言う。
「ジャガイモって言うな、ひつじじゃ！」
「えーっ！？」と和子寿美江コンビ。
「何だよ、俺が羊じゃおかしいか。あんた知ってるだろ、俺にゾッコンだったんだから。」と松尾は和子さんを攻撃。和子さんが応戦。
「ちょっとやめてよ大昔の私が一瞬だけ血迷った時の話なんか持ち出して、松尾さん、私しかデートしたことないんじゃないの？」
「あっ……」
　寿美江さんが漏らした言葉で、車内の中心に三点リーダーが尾を引いた。
「いや、ごめん……」
　またも寿美江さんの言葉が尾を引く。すると雪絵さんが手を上げた。
「私有るわよ、雄二君と。」
　その瞬間、皆、時の深閑に転落した。ルームミラーの和子さんの視線が雪絵さんの膝の辺りでストップモーション。寿美江さんはフロントガラスの先にカピバラでも見つけたかのように眉間に皺を寄せたまま固まってていて、当の松尾は、蝋人形のように瞬きをしない。そして一斉に動き出す。
「雄二くーん？うっそー！？」
　松尾だけが首を傾けたまま動かない。寿美江さんは振り返って雪絵さんの顔色を窺う。和子さんが質問する。
「雄二君って呼んでるの？そんなに仲良かったっけ？」
　雪絵さんは笑って言う。
「高校の時、もう一人松尾君が居たのよ。だからその子が松尾君で、雄二君が雄二君。」
　合点がいったようで、ゆっくり頷いている。
「この人が雄二君ねえ。で、雄二君が誘って来たの？」
「私から。美術館に行きたいからついて来てって言ったの。」
　松尾の首の向きが少し前の逆向きになって傾いている。私が口を開く。
「聞いてないよ。松尾、デートしたって雪絵さん言ってるけど……」
　松尾はやっと顔を上げ、ルームミラーの私と目を合わせた。しかしまた首を傾げて、
「夢だと思ってたが、夢じゃなかったって事かあ？」
　雪絵さんが心配そうな顔になっている。
「ちょっと雄二君大丈夫？軽い気持ちで誘ったけど、あの時ずっとうわの空だったから、めっちゃフラれたーって思ったのよね。」
　松尾は放心状態になっている。和子さんが松尾を問い詰める。
「ジャガイモがお嬢をフルってどう言う事？ちょっと待って、あなた案外モテるのね、驚き。」
　松尾は頭を抱えて雪絵さんの顔を見る。
「ごめん、俺、フッてないよお。夢じゃないって事は……もしかして俺、おかしな事口走ってなかった？」
　皆、雪絵さんの顔を見る。
「ああ、ぶつぶつ言ってた。〈キリスト教学におけるアガペーというものはー〉とか。ちょうどあの頃倫理の授業でやったのよね。だから覚えてる。試験勉強のし過ぎだったんじゃない？」
　松尾は横に首を振った後、外界との交信を遮断するかのように目を瞑った。
　それから目的地の縮小版華厳の瀧のある岩場に着いた。そこにはバーベキューをするために作られたスペースがあって。建設関係者の村人の手による物らしく、２グループまでが使用できるようになっていた。車内での奇妙な雰囲気が尾を引いていたが、私たちは着々とバーベキューの用意を進め、和子さん寿美江さんコンビが場を盛り上げようとおしゃべりを続けた。
　肉を網に乗せ、酎ハイ、ビールなどの栓を開けた時、松尾がこれまでの盛り下がった雰囲気を破るように手を上げ大声で言った。
「ちょっと俺に時間をくれ！これまでのわだかまりを払う為とこれからの残り少ない人生の為に告白と宣言をする！」
　突拍子も無い松尾らしい言動が、皆を安堵させ、また、期待を抱かせ、拍手が湧き起こった。
「よっ！村長！」私も大声になった。
「町内会長！」和子さんも。
「俺は今日この日、振り出しに戻すために告白する！雪絵さん、ずっと好きでした。馬鹿じゃないのかってくらい今でも好きです。それを言えずに五十年くらい片想いって情けない！あんたとデートしたいと思い過ぎて、何度もデートの妄想をして、それを繰り返し夢にまで見て、告白のシミュレーションをなん度もして、いつか本当にデートしたのに、それを単なる妄想と決めつけていた。ここで決着をつけます。どうぞ俺をフッて下さい！」
　皆、唖然として聞いていたが、言葉が途切れるとゆっくり雪絵さんを見た。
「どうしましょう。私、軽くフラれたと思ってたので。フラれてなかったのよね。じゃあ、とりあえず二人ともフリーて事だから、んん、振り出し。そうだ、軽トラで美術館に連れてって。今度はぶつぶつは無しよ。」
　松尾は涙まみれの顔で膝をつき、また思い直して立ち上がり大声で続けた。
「嘘だあ、信じられん。告白したぞー！デートのやり直しだ！ありがとう、雪絵さん、今度はまともに美術館に行きます。やった！ああ、そうだ、もう一つ、俺は今日を限りに人から逃げずに自分を曝け出す。残り少ない人生の時間を懸命にのほほんと生きる！頑張ってのほほんと生きる！宣言する！吉月、あんたのおかげだ。責任とってもらうぞ。じゃあ、乾杯！」
　笑いながら泣きながら、皆、ビールや酎ハイ、私はジンジャーエールを飲み、長い演説の為に焦げかけた肉を網から剥がしつつバーベキューハイキングの時を過ごした。
　控えめに用意していた肉は数切れが網の上で干からびかけていて、私がそれに箸を伸ばそうとしたところで、松尾がもたれかかって来た。
「おうおう、松尾、ご機嫌だなあ。」
　松尾はポケットから煙草を取り出し、一本に火をつけた。大きくひと吸いして空に思い切り吐き出した。
「当たり前だろう。親友が沢山できたんだからよ。ほんとあんたのお陰だよ。」
　私は彼の背中を叩いて言った。
「こんな時は煙草が旨いだろ？」
　彼は煙草を持った腕を伸ばし、煙が昇って行くのをしかめっ面で眺めた。
「旨くもねえよ。最近じゃ、煙草を吸う奴は悪人だしな。」
　私は笑いながら訊く。
「じゃあ、なんで吸ってんだよ。」
　松尾は首を傾げながら、
「さあ、なんでだろなあ。」と言って笑い出し、私も釣られて笑い、そして皆が
「なんで笑ってるの？」と訊くものだから、私と松尾は声を揃えた。
「さあ、なんでだろなあ。」
　笑いが止まらなくなった。

　数週間後、五十年前の振り出しに戻った二人は、普通レベルの美術館デートをやり直した。それからは時を急がず、恋人同士というより、とても仲の良い友達になって、そして時々五人で仲良しハイクにも出掛け、山鳩会にも顔を出した。何となく可愛い寿美江さんと私は特に恋へと進展するわけでもなく、和子さんとも仲良しで、伴侶のいない私たちは、そのまま、家族や親類のような時をゆったりと過ごした。

　さて、松尾との約束だったから、この小説で、私の世界一の恋を告白しなければならない。しかし、中、高、大、社会人と、夜の闇の中、私の胸に赤くのしかかる恋の顔は毎年違っていて、誰が世界一なのか、今となってはもう自分でも分からない。ただはっきりと言えるのは、恋はいつも呼吸困難を伴い、夜の寝つきが悪いということ。つまりは命の根源が「さっさと告白しろ」と煽り立てているのだ。そんな攻撃に松尾は五十年耐えて来たのだから大変な忍耐力だ。まあ、私個人の恋の話は少しも面白くないので、この辺で終わろうと思う。ではまた会える日を夢見る。
　

終わり

1 0