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2021年07月14日01:00

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「没後70年吉田博展」/静岡市美術館～その3

(続き)

◆第8章「印度と東南アジア」
1930(昭和5)年11月、博は19歳になった長男遠志を伴い、インドを訪れた。年来のヒマラヤへの憧れが発端だったという。
上海,香港,シンガポール,ラングーン(ヤンゴン)を経由してカルカッタ(コルカタ)に上陸し、北インドを中心に、様々な街や遺跡を巡った。
日中は炎天下でスケッチを重ね、睡眠は夜汽車に揺られながらという、写生に明け暮れた旅であった。
この旅の写生帖はレポートその1で紹介した。
翌年3月帰国、すぐさま木版画制作にかかり、32点からなるシリーズ〈印度と東南アジア〉(1931-32)を完成させた。
アメリカともヨーロッパとも異なる景色との出会いは、博の木版画に新たな題材を提供すると伴に、作画にも新風をもたらした。まばゆい光を浴びる石造りの建物や彫刻を描きだすため、淡色が幾度も摺り重ねられ、異国の風景が写生を超えた幻惑的な世界に昇華されている。

名作《フワテプールシクリ》(1931)の画像は、本レポートその1に貼付したチラシの裏にあるのだが、幾何学模様の飾り付き窓から暗い室内に入る光の妙は、残念ながら本物でなければ味わう事ができない。

《ベナレスのガット》(同)は、インドの北東部、ガンジス川の畔ヒンドゥー教の聖地ベナレス(バラナシ)にある階段状のガット(ガート)で、強い光の下、身を清める人々を描いている。

三島由紀夫は輪廻転生を根本テーマとした『豊饒の海』第3巻『暁の城』(1968-70)で、このベナレス(別名「大いなる火葬場」)を衝撃的に描写している。
「ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった。」
勿論、吉田博が三島の小説を読んでいる事はあり得ない。

・コラム「インドへの旅」
1930(昭和5)年11/3、吉田博は長男の遠志と伴に神戸を出港。上海,香港,シンガポール,ラングーンを経由してカルカッタへ上陸、ダージリンでカンチェンジュンガを望み、以後ベナレス,デリー,アーグラ,アムリトサル,ジャイブ,ウダイプル,ボンベイ等を巡り、タージマハルやサーンチー、アジャンタ、エローラの遺跡を訪れる駆け足の旅だった。
人生の多くの時間を旅に暮らした博は、実に綿密な計画を立てた。何ヶ月もの事前研究の末に、カンチェンジュンガの日の出を晴天下で見るべく季節を選び、アーグラでは12月の満月に出会えるよう月齢を調べて出発の日を定めたそうだ。

◆第9章「日本各地の風景Ⅱ 1933-35」
1934(昭和9)年、博は東京の淀橋区(現新宿区)下落合に新居を建てた。
戦後には多くの進駐軍関係者達を迎える事になる広壮な洋館は、博の終の棲家となった。博は遠志と伴にステンドグラスや家具のデザインを手がけ、設計や内装にもかなり自分の考えを入れたようである。
本章で観るシリーズ〈関西〉(1933)と〈櫻八題〉(1935)を中心とする日本各地の風景画は、この頃に制作された。
〈関西〉は全12作、大半は京都と奈良に取材している。金閣寺や東大寺二月堂、瀬田の唐橋といった名所が選ばれているが、色調は渋い。〈櫻八題〉では、名所の名木を描く事よりも、それぞれの樹の個性や構図のヴァリエーションが優先され、春独特の朧で柔らかな空気感の描出に重きが置かれている。

ダイアナ元妃が持っていた《猿澤池》(1933)もこの〈関西〉シリーズに含まれる。

◆第10章「外地を描く、大陸を描く」
1936(昭和11)年、博は当時日本の支配下にあった韓国と中国を訪ねた。この旅の成果が、のちに〈北朝鮮・韓国・旧満州〉(1932)と名付けられた5点連作である。
《大同門》は平壌、《昌慶宮》は京城(現ソウル市)、《北陵》は奉天(現藩陽市)に取材し、何れも堂々たる建物が構図の中心になっている。
1937(昭和12)年の日中戦争勃発以降、博は3度に亘り陸軍省嘱託従軍画家として中国に駆り出された。その経緯･行程は詳らかでないが、写生帖から湖口、安慶、廬山、南昌、九江、漢口、星子、広東等の地名を拾う事ができる。
写生帖に早描きされた各地の印象は意外な程に鮮やかでみずみずしく、60代前半の画家が新たな素材に絵心をかきたてられ、一心に筆を走らせた事実を伝える。だが、恐らくは販路の問題であろう、戦地の風景の多くは油彩画や水彩画として発表され、木版画としての成果は数点に留まった。

◆第11章「日本各地の風景Ⅲ 1937-41」
本章は、博が60代前半で手がけた日本の風景を集めている。
真に迫ろうとする入念な仕事振りは健在だが、寺社を中心としたいかにも日本的な景色が続くのは、自国の美の優秀さを国民に強要する戦時の風潮が影響しているのかもしれない。
日光の《陽明門》(1937)は、96度摺りという途方もない工程を経て完成した。

嘗て〈瀬戸内海集〉で手がけた海と帆船を主題とする《新月》(1941)は、膨大な本展最後の章の最後の木版画で、夜に帳の降りる頃かまたは未明か判然としないが、帆柱の奥の細い月が今にも消えそうな程かすかに天にかかる。晩年の博の心境は捉えがたい。

戦中は自由な写生旅行もままならず、過去の写生帖に画材を求める事が増えた。
従軍画家として描いた戦地は専ら油彩画や水彩画で発表され、木版画の制作からは次第に遠ざかり、太平洋戦争が勃発した1941(昭和16)年、65歳を最後に途絶える事となる。

96度刷りを重ねた《陽明門》の画像はチラシ裏で見る事ができるが、これも残念ながらネット経由では如何ともしがたい。

◆エピローグ
東京下落合の洋館は幸いにして焼かれる事なく戦争は終わった。
戦後は、以前からアメリカで人気の高かった木版画に進駐軍関係者が注目し、作品を求めて画家夫婦のいる洋館に集まった。二人は英語に堪能だった。
しかし博の戦後は短く、新作発表はただ1点、1946(昭和21)年の《農家》のみだった。博70歳。
エピローグに置かれた、人生最後の木版画である《農家》は、古い日本の何処にでもあったしみじみとした暗い土間の一景である。

大正末からこの《農家》に至る迄、凡そ20年の間に残した木版画は250点程にのぼる。木版画で〈世界百景〉を完成させるという夢は叶わなかったが、残された作品は、彫りにも摺りにも新しい工夫が重ねられ、光や空気感が無限のヴァリエーションをもって描きだされた、極めて独創的なものである。
吉田博の木版画は、日本に生きる洋画家が、世界に対抗し得るオリジナルな絵とは何か、それを塾考した末の、ひとつの答えだったろう。

吉田博は、1950年、下落合の自宅にて74歳で亡くなった。

・コラム「吉田家の戦後」
戦後、吉田家の広壮な洋館が接収の対象になった時、吉田博は連合軍総司令部(GHQ)に乗り込んで画家にとってのアトリエの大切さを英語で訴え、それを免れたという。
そうした経緯と、戦前からアメリカで人気のあった木版画が日本土産として求められたという事情が重なり、博の自宅は進駐軍関係者の集う場となった。博は彼等をもてなし、木版画の制作工程を解説し、時には目の前で摺ってみせた。連合国最高司令官マッカーサーの夫人ジーンや、その後任リッジウェイの夫人メアリーも訪れたという。
戦後間もない博について、「マッカーサーが厚木に降り立った時、まず”ヒロシ・ヨシダはどこにいる？(何処に住んでいる？)”と訊いた」とか「”Mr.ヒロシ・ヨシダ / JAPAN”の宛名でエアメールが届いた」といった伝説が存在するのは、当時の博の米国における知名度と特殊な境遇を物語るものである。

(終わり)
　

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