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2006年03月05日00:49

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●寄り道ついで (66)/■余談 (3)

■千々に乱れて

 ・タイトルがいけなかったか。「教養」と「漢字」。

  「教養」ということで、共通の「生産材」(「財」ではない)
  となるものは何か、考えてみたかった。胡散臭く・いかがわしく・
  かつ、いろんな思惑や戦略が見え隠れする「教養」「教養主義」で
  はあるが、共通の「生産材」がなければ、「話」もはじまらぬこと、
  ただそのことを再確認しておきたかっただけだ。


  そして、その根幹に「ことば」があり、「日本語」があるということを
  これも再確認しておきたかった。

  「日本語」とはどんな「ことば・言語」なのか、その成り立ちと
  「漢字」との関係を考えてみたかった。


 ・また、ある人々にとって、「教養」というものが、単に「ものしり」や
  「学がある」だけではあまりに俗物的で恥ずかしいので、
  これを「知識」から切り離し、その人のアイデンティティや
  行動規範と結びつけ、「人格陶冶」「自己形成」と言いなおして
  みたり、「教養とは、一人ひとりが社会とどのような関係を
  結んでいるかをつねに自覚して行動している状態を言うのであって、
  知識ではないのです」(浅羽通明「教養論ノート」)と定義したり
  しているけれど、どう手直ししてみても、やはり「教養」には、
  どこか社会的なステイタスや階層がひそかに忍び込んで、
  「教養」のない人と区別することを目的とするようなところがある。


 ・だから、私は、たとえば、いっそ義務教育の中学卒業で十分蓄えられる
  「基礎教養(素養)」というものを想定し、それを「教養・素養」の
  核にしたほうが、よっぽどすがすがしいと思う。



  そして、「教養が邪魔して・・・できない」というようなキザったら
  しいことを言わなくても、その素養には、自分には「禁じ手・
  封じ手」があるということが十分含まれていると思う。


 ・また、「教養」には「衒学」がつきものだが、「サルまね」
  「てらい」は決して蔑まれるべきことではない。成長はそこから
  始まる。そこから、しか、始まらない。
  
  かえって問題は、そう批判する「教養」のある側にある。

  もちろん、「サルまね」や「てらい」がスタートであって、
  目標でないことは言うまでもないが・・・。

  


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