「平成最後の」という枕詞があちこちで聞かれた2017年の歳末も、間もなく終わろうとしている。譲位という異例の決定によって、元号が間もなく変わることを私たちは知っている。昭和から平成のときと、その点は大きな違いなのだけれど、いまから30年前、すなわち1988(昭和63)年の暮れも、昭和天皇の容態によってはいつ、という緊張感のなかにあった。
バブルの絶頂期とも記憶されているけれども、当時は自粛ムードのなかにあった。私はまだ小学生に過ぎなかったけれど、剣道の大会ですら、そうした環境のなかで日程調整に大人たちが苦慮していたのを覚えている。
昨日、そんな小学校で机を並べていた友人から電話があった。何でもタイムカプセルを開けるので、もし時間があったら出てこないかというものだった。彼も現在は東京に活動拠点を移して活躍しているのだけれど、一昨日にその話を聞いて、慌てて飛行機に乗ったという。帰省ラッシュのピークに飛び乗れたのもすごいけれど、相変わらずのフットワークの軽さにも驚いた。
その小学校も、いまは少子化の影響で周辺の三校と合併して、違うところに移った。タイムカプセルは、閉校が決まった十年前に、当時の小学生たちが埋めたものだという。
ちなみに、彼から聞いた話によれば、埋めたはずのところから出てこなかったそうで、開封は一年後に延期となったそうだ。そんなのありなのか。
ともかく、30年前は郷里にも活気があった。青函トンネルと併せて瀬戸大橋が開通し、本州と地続きになった。これによって連絡船が廃止された。博覧会も催され、大勢の人たちが瀬戸大橋を行き来した。通行料が乗用車で往復一万円くらいするなど、その割高感から、次第に敬遠されるようになり、本四架橋の赤字が累積していくことになるのだけれど、開通当時はむしろ熱気が勝っていた。バブル期のような景気拡大がずっと続けば、あるいはそういう負担も感じなかったかもしれない。
そして暮れも、街の中心部にある公園がイルミネーションで彩られ、人工雪を降らせることまでやっていた。明るい未来が約束されたような思いを多くの人たちが抱いていたに違いない。
世界も、冷戦の終結に向けて動き出す。実際にそれがかたちになって表れるのは、翌1989年まで待たなければならない。けれども、戦後秩序が大きく変わる節目に、奇しくも昭和から平成へ元号が変わっていった。
一方、平成最後の2018年暮れは、変化の胎動に期待を抱く高揚した思いが必ずしもあるわけではない。むしろ、30年前のほうがおかしかったともいえるのだけれど、変化の兆しはあっても、期待よりも不安が先に立つようなところが、いまは強い。
ただ、30年前にしても、高揚感の先にあったものは、期待どおりの未来だったわけではない。むしろ、慎重に歩みを進めたほうが、目先のトラブルに足をとられずに済むかもしれない。こんなことを言うのもあれだけれど、期待や希望に胸躍らせているときほど、人は無防備になる。好事魔多し、慎重であることは決して悪いことではない。
新しい年が、私たちにとってどのようなかたちをとるのか。それが分かるのは一年後の今日か、それより先かもしれない。それでもなお、胸に期すものを持ち、それに挑んでいく気持ちは持ち続けていきたい。
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