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2009年06月28日05:52

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●うみうし独語(389)/■身心快楽(65)

■身心快楽(65)

 ●6月28日(日)  夜明け前 青黒い空に白い雲が見える

  「富士日記」の書き写しをはじめて、もう
  ずいぶん日が過ぎた。5月12日に「身心快楽」と題してからでも
  もう65回になる。

  「富士日記」を読みはじめたのは、2月の終わりか、3月のはじめだったか。

  2月16日の日記に「坪内祐三『考える人』も、もう少しで読み終わる。
  次は、村松友視『夢の始末書』にした」と書いているから、たぶん
  その頃だと思う。


  3月27日には、「『富士日記』を読む。昭和41年8月のあたり」と書いて
 
   ▼昭和四十一年八月九日(火)  快晴、風強し
    風が強いので涼しい。
    朝 じゃがいもバター炒め、キャベツバター炒め、コーヒー、トマト。
    昼 おにぎり。
    夜 ごはん、コンビーフ、佃煮、玉ネギとわかめサラダ。
      ・・・・

  と、「富士日記」を書き写している。そして、

    なぜ日記を書くのだろう。日記に何を書くのだろう。
    読み返すために日記を書くのだろうか。
    何かを残すために日記を書くのだろうか。

  と、書いている。




 ●きょうも、また書き写していた。
  が、保存しないで調子よく書いていて、また消えた。


  消えたのは、昭和四十六年十月二十四日の日記。
  きのう書き写した次の日の日記である。


  タマが蛇をくわえてきて、それを見せようとする話である。
  泰淳は蛇をイヤがって仕事部屋に閉じこもる。タマは蛇をくわえているから
  鳴いてしらせるわけにはいかない。仕事部屋の前にきちんとすわって蛇をくわえた
  まま、開けてくれるまで黙って坐っている。

  「いいか。タマを入れちゃいかんぞ。絶対に開けるな。
   俺はイヤだからな。タマをどこかへつれてけ。蛇は遠くへ棄ててこいよ」

  泰淳は仕事部屋の中から、急に元気のなくなった声でそう言う。

  「タマ、えらいね。遠くからせっせと持ってきたのね。大へんだったね。
   見せてくれてありがとさん」

  百合子さんはタマにそう言って、蛇をくわえたままの猫を風呂場に連れていく。
  食堂の掃除をしたあと風呂場にいくと、蛇は死んでいた。タマはまた外へ出ていった。


  
 ●そんな話が書かれていて、それを書き写した。
  そして、次の日記の日付が、約二ヶ月近くとんで十二月十四日になっていることを
  書いた。

  年譜から「十一月二十七日、泰淳、糖尿病に起因する脳血栓で入院。
  十二月九日に退院するが、右手に軽い障害が残り、以降、百合子が原稿清書や
  一部口述筆記にあたるようになる」というのを書き写した。



   ▼十二月十四日(火)  晴 風つよし
    十一月二十七日から十二月九日まで、主人入院。その前後一ヶ月半ほど、
    山にこられなかった。
    前九時東京を出る。
    談合坂の売店で、肉まん(主人)、シューマイ弁当(私)を買って車の中で
    食べる。タマに弁当の中のカマボコをやる。
    大月を過ぎて山麓近くになると強い風が吹いている。 ・・・
      ・・・・・


 ●そして、退院後一週間もたたないうちに出かけた昭和四十六年最後の
  「山行き」のあとも、毎年、山に行ったということを書いた。


    昭和四十七年  9回
    昭和四十八年  2回
    昭和四十九年  3回

  これは「日記」の記載から数えたもので、実際はもっと行っているのかも
  しれない。

  そして、昭和四十九年から「日記」は二年間の空白がある。この空白について
  前にも引用した、百合子さんの「附記」を書き写した。


    このあと五十一年夏になるまで、日記はつけていない。(中略)
    四十六年末に患ったあと、武田は原稿を書く仕事をしばらく休んだ。
    ときたま対談に出るだけだった。この病気に山の寒さはよくないので、
    晩春から秋のはじめまでを山で暮すようになった。(中略)
      ・・・・・
    日記をつけなかった山の暮しの日々には、どんなことがあったのだろう。
    いつの年とも同じように、雪が消え、ものの芽が吹き、桜が咲き、
    若葉となる。
    待ちかねたように山に来る。武田は日光浴をし、草を刈り、缶ビールを飲み、
    本を読んだりテレビをみた。七月に入ると嬉しそうに言った。
    「さあ、今年もうるさい大岡がやってくるぞ」
    「大岡のやつ。もう来てるかな。一寸行ってみてきてくれ」。
    大岡さんがしばらくみえないと
    「どうぞ遊びにきて下さいと言ってこい」などと―――やっぱり、
    こんな風に暮していたのだ。

    私は湖に泳ぎに行かなくなり、庭先の畑や門のまわりに夏咲く花ばかり
    作った。その熱心さを気ちがいじみていると武田は笑い呆れていたが、
    朝や夕暮れどき、ながい間花畑の中にしゃがみこんで、花に触ったり
    見惚れたりしてくれた。喜ぶ風を私に見せてくれた。

    言いつのって、武田を震え上るほど怒らせたり、暗い気分にさせたことがある。
    いいようのない眼付きに、私がおし黙ってしまったことがある。
    年々体のよわってゆく人のそばで、沢山食べ、沢山しゃべり、大きな声で笑い、
    庭を駆け上り駈け下り、気分の照り降りをそのままに暮していた丈夫な私は、
    何て粗野で鈍感な女だったろう。



 ●ここまで書き写して、消えてしまった。

  いまページは、下巻の379ページである。
  日記をつけなかった二年間の空白のあとの「昭和五十一年」の日記である。



  「今思えば不思議なことに、五十一年の夏はほとんど欠かさず日記をつけた」
  と百合子さんが附記に書いた、七月二十三日から九月九日までの、最後の長い長い
  「夏休み」と、「帰京してからは一週間ほどは、テレビをみたり、うなぎなど
  食べたり、洋服屋をよんで寸法とって誂えたり」していたが、泰淳が「眠っている
  間は何をしたらいいか、気分がざわざわするので、また、日記をつけはじめた」
  という、山荘でなく東京で書かれた、九月十四日から二十一日までの「日記」である。



 ●年譜には、「十月五日、泰淳、胃ガンおよび転移した肝臓ガンにより死去。
  享年六十四」とある。

  「富士日記」の最後の日付から、二週間後のことである。



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