■身心快楽(49)
●６月１６日(火) まだ夜中
パソコンを切って、ぐっすり眠った。
そして目が覚めたら、こんな時間だった。
私はコタツで寝ていたが、妻はいつの間にかパジャマに着替え
ふとんの中で「愛の讃歌」なんか歌っている。
８月のリサイタルの練習か、ヘッドフォンを耳にあて、天井のほうへ腕を伸ばし、
手で波が打つように拍子をとりながら、仰向けになって目をつぶって
声を少し小さめにして歌っている。
夜鳴いていたうぐいすは、二三日まえから聞かないような気がする。
南の空はあいかわらず暗い夜空に、薄い白い雲がかかっているようだ。
すぐ前の棟の真上の方に、よく見ると幽かに三日月を反対向きにした下弦の月が
小さくぼんやり浮かんでいるのが見える。
きょうは天気は下り坂なんだろう。
つづきは明日、書こう。
夜が明けるまでは、きょうは昨日のようで
明るくなるときょうは、今日のようになる。
●６月１６日(火) 晴れ、またはうす曇り
雨が降らない。下り坂に向かっている天気のはずだが、
朝は、出勤時、すでにだるい暑さ。
湊川公園駅を地下道から路上にあがると、ぷ〜んと臭ってくる。
業務用の生ゴミを集めた後の、回収袋からもれたゴミ汁の臭い。
夏がやってきたなー、と思う。
昼、喫茶店に行ったら、
ツバメの巣はからっぽになっていた。泥の巣だけがあった。
親鳥がエサを運んでくるところも、ヒナがさえずるところも見ないうちに
ツバメは巣立っていた。
●「富士日記」昭和四十六年 拾遺��
�� 4/24 〜 4/27
この年、４回目の「山行き」も、２回目・３回目と同じように東京にもどったのは
いつなのかはわからない。中一日、日付のとんでいる日があるが、
おそらく４泊したのだろう。
▼四月二十四日(土) 晴 風つよし
『海』の原稿の終りの部分を管理室に預けて、出かける。午前十時。タマもゆく。
タマは少し馴れたのか、今日は鳴き声が小さい。
中央道の沿線の山や谷や丘は木の芽だち。白緑色、萌黄色、銀灰色、金茶色が
泡だつようにうすく霞んでいる。その中に鯉のぼりがあがっている。
石川で鮭のちらしずし二折り。
山へ上がって行く道の両側に富士桜が咲いている。
庭の梅は満開。お尻丸出しという風に開ききっている。すみれが咲いている。
●ふ〜うん、梅は開ききって「お尻丸出し」にして咲くのか！
感心する。そう言われると梅の花弁の開ききったさまは、そのように見えてくる。
山に到着して、ほうじ茶をいれ、買ってきたちらしずしを食べる。
そして、こんどは山を下って買出しに行く。隣りから頼まれた豆腐や生あげ、しんせい
なども買う。
原稿が仕上がった後は、泰淳はいつもぐったりとなる。このときもそうだ。
隣りのたのまれもの、豆腐二丁、なまあげ五枚、しんせい(タバコ)一箱も買ってくる。
隣りへ東京から持ってきた干物をわける。
夜 おかゆ、梅干、おかか、バター、時雨煮。
主人、『海』の原稿があがったあとで食欲がまるでない。おかゆを食べる。
私もおかゆを食べる。湯浅[芳子]先生が東京の家へ持ってきて下さった時雨煮を、
そのまま持ってきてよかった。主人、時雨煮ばかり食べる。おいしいと言う。
●百合子さんは、泰淳が「おいしい」といったモノを全部書きとめている。
工夫して作って「まずい」と言われたモノも書いているが、泰淳が「おいしい」と
いったコト、モノを、自分が「おいしかった」ように書きとめている。
そして、泰淳は「おいしい」もの、そればかり食べる。
バターは、おかかや梅干のように、おかゆにのせて食べたのだろう。
次の日、百合子さんは畑仕事をした。
▼四月二十五日(日) 晴
・・・・
畑をうなってタネをまく支度をする。昨日隣りで貰った豆のタネをまこうと
していると、隣りから植木屋はずっと見ていたらしく、我慢が出来なくなった
ように、境のバラ線をくぐってやってきて、「豆のタネは、まだ霜がくるから
早すぎる！！」といってとめる。「かぶか大根をまきなせえ」と言う。
「まくときは土を足で踏んでかためてからまかないと、土が乾燥してしまう」と
踏み方を教えてくれる。印刷か判で押したように、寸法も角度も揃っている足型を
藤の花のようにつけてゆく。私がやると深かったり浅かったり、角度も
だんだんにちがってきてしまう。植木屋は何度もくり返してやってみせてくれた。
●またしても植木屋さん。「かぶか大根をまきなせえ」、まるで時代劇の股旅ものの
木枯し紋次郎ではないか。いいなあ、私もこんなセリフを吐いてみたいものだ。
百合子さんは、ヤジられたり、からかわれたりもするが、それはやっぱり
彼女に人を惹きつける魅力があったからだ。そんな場面を「日記」から
いくつも拾ってくることができる。
●昭和４５年７月２３日の日記には、百合子さんが一人でいったん東京にもどり、
山へ帰る途中、甲州街道で
百合子さんの車に並走するように走る軽トラックから男たちに「××××」と
「ぺたりと濡れ雑巾を体につけられたような」言葉を投げつけられたことを
「なかなか忘れそうもないこと」として、伏字を使わず書いている。
これも百合子さんの魅力なんだろう。
またこの日、タマの様子と隣りのおばあさんの話を書いている。
タマはリスを追いかける。高い枝に上がってすくんでいるリスに
「遊んで頂だい」といっている。木の下に行き、ねころんではくねって、
自分はいかに無害で可愛らしいものであるかを見せている。
紋白蝶がとんでくる。タマは紋白蝶をおいかける。そのすきにリスは逃げていく。
夜、つくしの煮たのを持って隣りのおばあさんが来る。
「タネの上にかぶせる土は、まいたタネの大きさの三倍の深さにかぶせる。
私は娘のときまでは百姓でしたから。じいちゃんよりよく知ってるの。
いまはちっとも百姓をしたくないの。娘のときしましたからね。
土がキライで外で働くのがキライになりました」と、勝手口で教えてくれた。
●おばあさんは、きっちり仇をとっている。可愛いというか、可笑しい。
▼四月二十七日(火) 晴
タマが、ねている私の顔をそおっと叩く。爪をひっこめて、極度に遠慮して
緊張した白い足で。陽があたっている。十時ごろかと思って急いで起きたら
七時だった。
・・・・
Ｋ酒屋で。缶ビール一箱、大関一本、サントリーレッド、いちご二百五十円、
夏みかん三個百八十円、青柳(貝の乾したの)一袋千円、ハチミツ一本、合計
五千三十円。
ここの店の娘に子供が生れた。うちで山にはじめてきたころ、この娘は
女学生だった。おかみさんは初孫の赤ん坊を抱きかかえたきり、店先に
腰かけ、店の仕事をしない。「どういうものか、うちの赤ん坊だけがかわいい。
よその子供はかわいくないね」と、太った顔を笑み崩れさせて、来る客ごとに
大きな声で言っている。
・・・・
今日一日、陽があたりつづけ、庭の富士桜はほころびかけた。
ひきわり麦の残りを庭にまいておいたら、リスはおびえながら来て食べてゆく。
タマが昼寝しているうちに。鳥もタマがねているうちに水浴びを大急ぎで
してゆく。
●「どういうものか、うちの赤ん坊だけがかわいい」、これはそんなものだと思う。
リスが、ひきわり麦をタマが昼寝しているうちにおびえながら食べにくる、
小鳥がタマのねているうちに、水浴びにくる。
これも、そんなものだと思う。
命あってのもの種。
引き継がれる命。
命のいとおしさ。
しかし、この日が、もし４回目の山行きの最後の日だとしたら、
「缶ビール一箱、大関一本、サントリーレッド」は、ちょっと多すぎはしないのか。
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