■ひげ (破)
●店長から二度目の注意を受け、私は店長に言った。
「ひげは生やすとなぜいけないのですか」
店長は、組合員が見て好ましい感じを抱かない、とか
食品衛生上、不潔(?)だというようなことを言った。
私は、まったくヒゲを生やすつもりはなかったが、また
そんな趣味もないのに、店長とのこのやりとりのなかで、
偶然にも、ひげを生やすことになった。
●無精ひげが生えてきて、それをただ剃らなかったのが始まりで、
いつのまにか、「くちひげ(髭)」と「あごひげ(鬚)」を
たくわえるようになった。
店長は、当時の組合長(生協の経営トップ)のムスコで、私より
2〜3歳年上で、名前には私と同じ「紘」の字がついていた。
まじめで、若手のホープみたいで、どことなくおぼっちゃんという
感じのする店長だった。決して嫌いな人間のタイプではなかったが、
当時の生協の女子従業員へのしめつけ(おしゃれはいけません、
マニュキア・つけ睫毛もいけません)という風潮があり、
この店長もこの方針を素直に遂行していた。
●店舗に異動になり、最初にやったのが「詩の会」で、「詩の会」と
私の「ひげ」は相前後して生まれた。
「ひげ」は、当時の灘神戸生協にとっては大問題だった。
この当時(1971年)には、まだヒゲを生やすなんていう人は
サラリーマンにはまずいなかった。そんなのも、まだ流行っても
いなかった頃の話だ。
単に「ひげ」というよりは、風紀紊乱・秩序破壊の意味で
私の行動は問題視されたのだと思う。
以来、私は会う人ごとに「なぜ、ひげを生やしているのか」
問われ、また非難された。いまの「チャパツ」以上の反撥があった。
●翌年、私は労働組合の執行委員になり、専従として働いた。
執行委員会でも問題になり、私にひげを剃るように勧告した。
しかし、私は彼らが、剃れと言うたびに、まったく生やす意思の
なかった「ひげ」を、絶対剃るまいと、思うようになった。
「ひげ」は、それからずっと、剃るように言われ続け、私は
生やし続けた。「みんなが剃れと言わなくなったら、剃ります」
と、私はうそぶいていた。
●以来、震災の年まで25年間、私はひげを生やしていた。
「あごひげ」はヤギのように見えるので剃って、「くちひげ」だけに
した。「ひげ」は長くなれば、はさみで切って整えた。
不潔に見えない程度の「手入れ」をした。
生やし始めて、10年くらいはずっと非難の対象だった。
身内の親戚からも、非難めいた口調で「ひげ」のことは言われた。
それから、どれくらいたったころだろう。
世の中に、ひげを生やし始める人が出てきて、私への風当たりも
少しはゆるくなった。
もう「ひげ」の役目も終わりを迎えるようになっていたが、
その頃には、私も「ひげ」に愛着を感じるようになっていた。
子供たちは、ひげのある私の顔しか知らなかった。それでそのまま
生やしていた。
まったく、無意味な抵抗といえば抵抗、徒労といえば徒労。
そんなことを、私はした。6000人を超える組織の中で
「ひげ」といえば私のことであり、「ひげ」と私は切り離せない
関係になっていた。
「ひげさん」と「さん」がつくようになって、「ひげ」は
私のトレード・マークのように機能した。
そして、その「ひげ」を、「ヒロヒコさんは、ひげが似合う」と
最初に認めてくれたのも義母だった。
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