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2006年03月13日00:58

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●寄り道ついで (74)/■続・義母(2)

■ひげ (破)

 ●店長から二度目の注意を受け、私は店長に言った。
  「ひげは生やすとなぜいけないのですか」
  店長は、組合員が見て好ましい感じを抱かない、とか
  食品衛生上、不潔(?)だというようなことを言った。

  私は、まったくヒゲを生やすつもりはなかったが、また
  そんな趣味もないのに、店長とのこのやりとりのなかで、
  偶然にも、ひげを生やすことになった。



 ●無精ひげが生えてきて、それをただ剃らなかったのが始まりで、
  いつのまにか、「くちひげ(髭)」と「あごひげ(鬚)」を
  たくわえるようになった。

  店長は、当時の組合長(生協の経営トップ)のムスコで、私より
  2〜3歳年上で、名前には私と同じ「紘」の字がついていた。

  まじめで、若手のホープみたいで、どことなくおぼっちゃんという
  感じのする店長だった。決して嫌いな人間のタイプではなかったが、
  当時の生協の女子従業員へのしめつけ(おしゃれはいけません、
  マニュキア・つけ睫毛もいけません)という風潮があり、
  この店長もこの方針を素直に遂行していた。



 ●店舗に異動になり、最初にやったのが「詩の会」で、「詩の会」と
  私の「ひげ」は相前後して生まれた。

  「ひげ」は、当時の灘神戸生協にとっては大問題だった。
  この当時(1971年)には、まだヒゲを生やすなんていう人は
  サラリーマンにはまずいなかった。そんなのも、まだ流行っても
  いなかった頃の話だ。


  単に「ひげ」というよりは、風紀紊乱・秩序破壊の意味で
  私の行動は問題視されたのだと思う。


  以来、私は会う人ごとに「なぜ、ひげを生やしているのか」
  問われ、また非難された。いまの「チャパツ」以上の反撥があった。



 ●翌年、私は労働組合の執行委員になり、専従として働いた。
  執行委員会でも問題になり、私にひげを剃るように勧告した。

  しかし、私は彼らが、剃れと言うたびに、まったく生やす意思の
  なかった「ひげ」を、絶対剃るまいと、思うようになった。
  

  「ひげ」は、それからずっと、剃るように言われ続け、私は
  生やし続けた。「みんなが剃れと言わなくなったら、剃ります」
  と、私はうそぶいていた。



 ●以来、震災の年まで25年間、私はひげを生やしていた。
  「あごひげ」はヤギのように見えるので剃って、「くちひげ」だけに
  した。「ひげ」は長くなれば、はさみで切って整えた。
  不潔に見えない程度の「手入れ」をした。


  生やし始めて、10年くらいはずっと非難の対象だった。

  身内の親戚からも、非難めいた口調で「ひげ」のことは言われた。


  それから、どれくらいたったころだろう。
  世の中に、ひげを生やし始める人が出てきて、私への風当たりも
  少しはゆるくなった。


  もう「ひげ」の役目も終わりを迎えるようになっていたが、
  その頃には、私も「ひげ」に愛着を感じるようになっていた。

  子供たちは、ひげのある私の顔しか知らなかった。それでそのまま
  生やしていた。




  まったく、無意味な抵抗といえば抵抗、徒労といえば徒労。
  そんなことを、私はした。6000人を超える組織の中で
  「ひげ」といえば私のことであり、「ひげ」と私は切り離せない
  関係になっていた。

  「ひげさん」と「さん」がつくようになって、「ひげ」は
  私のトレード・マークのように機能した。



  そして、その「ひげ」を、「ヒロヒコさんは、ひげが似合う」と
  最初に認めてくれたのも義母だった。



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