■身心快楽(56)
●６月２１日(日) 曇り、のち晴れ
雨が降り、雨がやむ。
陽が照り、陽が陰る。
降ってはやみ、
照っては陰る。
そんな繰り返しのどこが面白いのか？
そう問われて、どう答えたらいいものか。
子供のころ、ちょうど今ごろ梅雨時のこと、
雨ばかりが降りつづき、外に遊びに行けなくて
玄関横の窓ガラスから、降る雨を見ていた。
雨は白い糸のように降り、地面にあたって
いくつもの小さな水の輪を、ぷつぷつぷつと作って
それを長いこと見ていた。
そのとき、どんなことを考えていたか
そんなことは、わかるはずもなく
遠い記憶にあるだけのことだけど、
たしかに、そのとき雨が降っていて
それが今でも、どこか私の記憶の中で
まだ、ずっと降り続けているから
それで今でもあの雨の日を、覚えているのだろう
と思う。
日々の移り変わりは気づかぬうちに過ぎてゆく。
記憶にとどめぬうちに過ぎてゆく。
子供のころの雨の日の、記憶と同じ毎日が
いま目の前を過ぎてゆく。
それと気づかぬうちに、過ぎてゆく。
●「富士日記」昭和四十六年 拾遺��
▼六月十九日(土) うすぐもり
朝六時半、赤坂を出る。洗ったカーテンを持ってくる。
庭の梅の実は大きくなった。コンフリーの花が咲いている。淡紫と濃紺の、
レースで作ったような、桐の花を小さくしたような花だ。
朝 ごはん、ひらめ煮付、焼き茄子の実の味噌汁、コンフリーおひたし、山椒佃煮。
昼 ごはん、海苔、うに、卵焼。
夜 かけうどん、きんぴらごぼう、ほうれん草おひたし。
主人の電気毛布をしまう。
▼六月二十日(日) 小雨 一日中降ったりやんだり
・・・・
午前中、吉田へ買出し。・・・
山は濃霧。下って行くと次第に晴れて、河口湖町には陽が少し射している。
吉田の八百屋には、さくらんぼが出ていた。・・・
夜遅く本降りとなる。今日一日の静かな雨で、けしの芽はずい分大きくのびた。
遅く、雨の中を外に出ていったタマは、全身びしょ濡れになって帰ってきた。
拭いてやるとストーブのそばの段ボール箱に入ってねてしまった。
▼六月二十一日(月) 終日、雨
・・・・
一日中、庭先から向うは乳白色である。外に出てしばらくすると濡れているのが
わかるほどの微かな雨が終日降っている。
二人で本栖湖へ行った。本栖湖は、ひどく減水していた。広くなった浜を歩いた。
誰もいなかった。・・・
夕方、思いついたように、雨の中を外に出て、主人は枝伐りに夢中になった。
▼六月二十二日(火) くもり時々小雨
・・・・
十時ごろ、河口湖を一周する。山は霧がなく、町へ下ると霧がかかっている。
昨日と逆だ。
大石の入江で車をとめる。水のほとりの大きな野ばらが満開で、道路まで匂って
くる。モーターボートと遊覧船が湖水をわたってゆく。・・・
晩ごはんのとき「明日の朝帰る」と突然言うので、管理所に台所のごみを棄てに行く。
追いかけてきたタマは、私の車が戻ってくるまで、門の石垣の上に
こうばこ(香箱)をつくって、じっと待っていた。死んだ犬がしていたように。
▼六月二十八日(月) くもり時々晴
六時東京を出る。
山へ着くころ、陽が射してくる。高原のどこにもかしこにも野ばらの匂いが流れて
いる。・・・
夜になって豪雨となる。
昼間は二人ともぐっすり昼寝した。
夕ぐれどき、いく種類もの鳥が一度に庭にきて啼いて、タマをそわそわさせる。
タマは自分も鳥と同じように短く切った声を出して鳴いてみる。
▼六月二十九日(火) 快晴
快晴。夏がやってきたようだ。うぐいすは朝早くから、声を限りに啼きつづけ
ている。「うちのうぐいすが一等賞だ」と主人言う。・・・
三時ごろ、西の空に入道雲がたつ。青空で、きらきら輝くようなお天気となった。
主人は待ちかねたように、草刈りをはじめた。私もすぐそばで草を刈る。
白い小さい蛾が一杯舞いたつ。ぼけには青い堅い実が沢山ついている。
あざみに紋白蝶がくる。
▼六月三十日(水) 雨時々曇
一日中、降ったりやんだり。雨がやんだとき、少し草を刈る。
隣りの食堂のテレビはテレビ体操をやっている。音楽が草を刈っているところまで
聞こえてくる。老夫婦は並んでへたっと坐り、首をのばしてじいっと視入っている。
晩ごはんのとき、その話をすると「テレビ体操はじっとみてるだけで
自分も運動したようになるんだ。じっとみつめているとテレビで体操している人と
同じところに力が入ってくるわけだ。俺なんぞもよくみてるよ。みてるだけで
体操したと同じになるんだ」と主人は言った。
●昭和四十六年の８回目と９回目の「山行き」はこんな日々で、淡々とした日々だった。
村人の話も、隣りの老夫婦の話も、あまり出てこない。しかし、それは退屈を意味しない。
上巻あたりでは、村人たちの話の聞き書きが「日記」の面白みであった。
しかし、巻が下るにしたがって、なんの変哲もない日々の天気や景色の叙述が
味わい深い。書かれている文字ズラの文章が異彩を放つわけでなく、名文でも
ない。なのに味わい深い。淡々と読むうちに、百合子さんの心模様がこちらに
映ってくるような気がする。
二人で本栖湖へ行った。
昼間は二人ともぐっすり昼寝した。
草刈りをはじめた。私もすぐそばで草を刈る。
二人で過ごす平穏な日々で、ひょっとして、これが「至福のとき」であるかも
しれないような予感さえ与えている。
●ちょっとした事件ならある。事件と呼べるか、それもあやしいが
「ワグナー事件」と「熊事件」がある。
村人たちの話とはまたちがって、別の趣の話になってきて、少しずつ深みが
ましてくる。
それは次の１０回、１１回の「山行き」で出てくる。
ログインしてコメントを確認・投稿する