■身心快楽(45)
●６月１３日(土) 晴の薄曇り
ベランダに出てみる。紫陽花の紫がしっとりとして見える。
雨が降ったわけでもないのに、サツキも芝の緑も、モミジの若い黄緑の葉も
みな心なしか潤んでやわらかく見える。
日射しが強くて萎垂れているのではなく、ひっそりとした空気の水分を吸って
息をしているような柔らかさだ。
少しだけ見える横尾山の山肌の緑も白っぽくて、
高取山は山全体が、霞んだような白くて薄い雲のような、霞のような淡い雲の中に
ある。
晴れているのに、空の全部が、うすいうすい白い雲の中にある。
●きょうも出がけに、妻は声をかけた。
「あんた、行くよ。起きてこんでいいよ。冷蔵庫に冷や汁があるからね」
私は起きて、あわただしく出かける準備をしている妻を
玄関まで見送りに行く。
「どう？」と聞く。
「白のシャツに黒と赤の模様が入っていて、それにブルーの靴は・・」と言いかけると
「色が多すぎる・・、そう？ ワタシもそう思とったのよ」と
黒のサンダルに履き替える。
素足が見えて、指のブルーのペディキュアが涼しげな感じだった。
●「富士日記」昭和四十六年 拾遺��
「序破急」の「急」にあたる『富士日記』下巻の中で、その転機が現われてくるのは
昭和４４年から昭和４５年あたりで、そこを読んでいると、百合子さんの眼が
何に向っているか、それによって、その年に名前がつけられるような気がしてくる。
・昭和４４年 「頭の中の目」
・昭和４５年 「枇杷・桃」
・昭和４６年 「猫<玉>」
何を見ても、何を書いても、それは百合子さんが立ち止まって観察し
切り取ってきては、それに自分の心模様を反映させたものではあるが、
それがより鮮明になり、意識的とも思えるようになるのは、泰淳に疲れが目立つ
ようになった昭和四十四年ころからだと思う。その年の暮れ「今日は一日、
降るともなくいつのまにか積もってゆく雪を、見るともなく見て暮した。何もしないで。
遠くを見ているような頭の中の眼。(12/27)」と書いている。
そして翌年の春には、「白く高く浮かんでいるのはこぶしの花だ。毎年、同じところに
咲いている。私は毎年それを見ると『こぶしの花が咲いていた』と同じことを書いて
いる」と記す。そして、上巻ではほんのちょっと、中巻ではちよこちょこ顔を覗かせて
いた「主人(泰淳)」の影が昭和四十五年では、ぐっと大きくなる。
それは歯のなくなった主人の象徴のように「枇杷・桃」に投影されてくる。
こんな風な解釈を勝手につけて、私は昭和四十六年を「猫<玉>」の年だと思っている。
●以下、また、そんな視点から書き写しをやってみたいと思う。
できるだけ短く、足早に・・と思うのだが、ついついある所ではしみじみとし
長い書き写しになるかもしれない。書き写した「日記」の日付は省略せず、
あとは、できるだけ短く・・。なお、○の中の数字はこの年の「山行き」の番号、
そのあとの / 〜 / は日記の日付。
�� 1/2〜1/4
▼一月二日 快晴 風なし
元旦も快晴。きょうも快晴。昔のお正月の空のような真青な空。
前十時すぎ赤坂を出る。タマもつれてくる。花子は暮から京都へ行っている。
トラックが走ってないので、信号も町の家並もはっきり見える。
信号は三つ先のまで見透かせる。 ・・・・
富士山も真白にはっきり見える。今日は東京の青山からも富士山が見えた。
上野原あたりの小さな村に凧が揚がっている。 ・・・・
大月を過ぎると車は少なくなる。タマが箱から出て運転台にやってきて鳴くので、
谷村駐車場に入れて土の上におろしてやる。車からオイルが洩れているのを
みつける。 ・・・・
雪は積もっているが、車が通れるだけの道幅はかいてある。Ｓランドを過ぎた坂で、
下りの車が六台追突している。
夕方、オレンジ色と鳩の羽色の夕焼。雪の上で焚火をする。
夜、外に出ると星空。晴れわたっている。あまり寒くない。この雪は大晦日に
降ったのだという。東京はその日は雨だった。 ・・・・
▼一月三日 くもり時々雪
昨夜、屋根から雪が、時々大きな音をたてて落ちる。そのたびにタマは私のふとんの
中からとび出る。寒いのでまた入ってくる。 ・・・・
十時、初詣に下る。主人も行く。また、ぼたん雪が降り出す。
浅間神社(富士吉田)のお札所には誰もいない。本殿にも誰もいない。
お賽銭箱のそばに誰かが供えた小さなお供え餅がコチコチにちぢまっている。
とても寒い。去年は神主さんのいるところを探して、出てきてもらってお札を
頂いたが、今日は寒いので「もういい」と主人言う。
・・・・
河口湖の駅で新聞二十円、みかん二百円。
Ｓ農園の食堂で。とろろそば二杯に百円、みかん百五十円(また買う)、絵葉書
二組二百五十円。
おじさんは「山は雪がどの位あるかね」と訊く。「長靴の上位まで」と、
指で膝の辺を押さえて答える。
ゴルフ場の横の坂でスリップし、三回バックしてやり直して上がる。
昨日までいた家の人たちは帰った。隣の老夫婦とうちだけになった。
・・・・
タマは庭に出て雪の上を歩いては足をふるっている。猟銃の音がしている。
夕方、また雪が降ってくる。車のサイドブレーキを外しておく。
雪が降る中を隣りのおばあさんが、袖で小鉢を掩って下りて来る。
ゴボウのきんぴらと、北海道の子供のところから送ってきたソウハチという
かれいの干物のような魚四枚。
「きんぴらは私が作ったの。じいちゃんではない。ソウハチはとてもおいしいから」と
言う。
夜 お雑煮。ソウハチを焼く。おいしい。タマにもやる。ごぼうのきんぴら。
一日中、屋根から雪が落ち続ける。これは雪ではなく、氷のかたまりなのだ。
軒下には氷のかたまりが散乱している。
「頭にあたったら怪我するから、軒先は歩かないようにしろ」と
主人は私に注意した。
▼一月四日(月) 快晴
小窓から、ねていて真青な空が見える。木の枝には雪が輝いてまぶしい。
昨夜のうちに雪が積もった。時々風が吹いて、木の枝の雪は、いま降ってきた雪の
ように舞い落ちる。
・・・・
午後から、主人と庭の道の雪かき。真白な富士山はのしかかるように
すぐそばに見える。 ・・・・
遠くから車のチェーンの音が近づいて、また遠ざかる。ブルドーザーの音が響いて
いる。人の声も鳥の声もしない。
夜は風が底唸りして吹いてわたる。寒波が日本全体を掩って今夜から
もっと寒くなるらしい。東京も六センチ雪が積もったとか。
明朝十時ごろ、夜の間に凍った雪道がとけはじめたときに、山を下って
帰ることにする。
●「どこが駆け足やねン、また長々書き写してるやないか！」
そう言われそうである。
まあ、正月。正月ということで大盤振舞い。
それと、正月のすがすがしさがいい。
年末の「家の中は冷えきっている」とは大違いである。
文章がすっきりしている。凛としている。清冽である。きっぱりしている。
とくに「明日十時ごろ、夜の間に凍った雪道がとけはじめたときに、山を下って
帰ることにする」が、いい。
山荘のあるあたりは、住んでた人は皆帰り、山に残っているのは
うちと隣りの山荘の留守番している老夫婦だけになって、地元の人でさえ
「山は雪がどれ位あるかね」と訊く積雪の山である。
しかし、主人と庭の雪かきをし、男は「頭にあたったら怪我をするから、
軒先は歩かないようにしろ」と注意してくれる。
男のずぶとい声は、頼もしいものだ。
●あれはいつだったか。
私は、季節は全然ちがうのだが唐突に「夏」のことを思い出した。
湖を裸で泳いでた元気なときの泰淳のことを。
そう思って探すと、それは「本」の上巻、「昭和四十年八月」にあった。
▼昭和四十年八月十七日(火) 晴
朝ごはんを終えてすぐ、河口湖駅より列車便の原稿を出しに下る。主人同乗。
駅から思いたって、そのまま本栖湖へ行く。ボートに乗る。岸づたいには
こられない、人のいない溶岩の入江に舟を着け、水着をもってこないので、
主人真裸になって湖水に入り泳ぐ。
水は澄んでいて深く、底の方は濃いすみれ色をしている。
ブルーブラックのインキを落したようだ。そのせいか、主人の体は青白く、
手足がひらひらして力なく見える。私は急に不安になる。私も真裸になって
湖に入って泳ぐ。
私は前に読んで、そこには「元気な泰淳」が書かれていた、とばかり思っていた。
が、いま書き写すと「体は青白く、手足がひらひらして力なく見え、私は急に
不安になる」と書かれていた。
また、この箇所を探すために「本」をパラパラしている途中で、こんなのも見つけた。
それは中巻の「昭和四十二年七月」。
▼昭和四十二年七月十二日(水) くもり時々小雨降る
六時、眼をさます。もう、うぐいすと山鳩の声。 ・・・・
庭のあざみ、咲いた花は盛りを過ぎて、花の先っぽに花粉を浮かせている。
それに熊ン蜂がくる。濃い金茶色に黒い点々のある蝶がくる。
松に毛虫がいる。松の下の草を刈ると、手についたり、草に落ちたりする。
主人も私もつばの広い帽子をかぶる。
午後、草刈りのあと、大やかんに湯をわかして主人の体を拭く(風呂のエントツが
外れているので)。おちんちんも拭く。「ここのところ、もっと拭きたくて」と
言うと、「拭き方やめえ。こういうところは、あんまり綺麗にすると
頭が悪くなる」と言った。
▼昭和四十二年七月二十三日(日) 快晴
富士山は山頂をくっきり現わし、五合目から裾にゆったりと雲を巻いている。
ふとんを干し、風呂場を掃除する。レコードをかけると、鳥が負けずに
啼きさわぐのがおかしい。
庭で主人、入浴する。次に私もする。三時ごろは陽射しが熟れて、汲み置いた
タライの水は、丁度よく温んできている。陽なたでみる自分のお腹の生まなましく
白いこと。
そして、「昭和四十三年八月七日」には、「今日は立秋だった。夜は素足だと
寒いくらい。ただ過ぎに過ぎゆくもの、春、夏、秋、冬。」と書いている。
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