世界の真の終焉とは
努力のある観照や観察はいぜんとしてリラックスしていないために
二元の世界である
(そのようなタイプの観照はまだ半二元であるといえる)
現実存在の自然により癒されてリラックスしているときは
幻想の世界はないかのように生きている
私と世界はないからである
その癒しがただある
幻想の余生がつづいていたとしても
グラウンディングした落ち着いた心境(私と世界は元の自然なエネルギーに回復しており
もともと変わらない世界の一部 いや正確には自然エネルギーとしてひとつ)
となる
これが自然の記憶(真の無努力)による観照であり(これが価値のある真の抽象画といえる、それにはお金も努力もかからないのである)
その余生がおわるときには
燃え尽きたロープ(自然の記憶に癒された心)とその観照も完全におわることになる
不自然な旅から
自然な記憶の旅への
はじめからおわりまでオートマチックな移行
自らである神は悟り
私(空想)には何ができるか
私とは何なのかがわかり
よりしあわせになることなどなかった無意味な束縛空想の旅をもはやくりかえすことはない
そして
ふたたび完全な永遠平和がある
自らである神がもう悟ったからである
自らである神の
試みは終焉したからである
これが
ノンデュアリティオートマチックといわれるもの
つまり
自然から(のオートマチック)
という試みの
終焉なのだ
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