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2006年03月03日00:09

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●寄り道ついで (64)/■余談 (1)

■宣伝文

 ・加藤徹「漢文の素養」に触発されて、また、つまらぬことを
  書き始めたように思う。
  タイトルからして、「教養」「漢字」などと大げさである。


 ・まず、「教養」であるが、
  高田里惠子「グロテスクな教養」(ちくま新書)という本がある。

  また、村上陽一郎の「やりなおし教養講座」(NTT出版)と
  いう本もあつた。



 ・「教養」というと知識をひけらかすようなイメージがあり、
  「高等教育を受けたかどうか」「難しい本をたくさん読んだかどうか」
  などを、世間では「教養」のあるなしに関係する事柄のように
  思ってきた。


  それは「教養主義」のことで、「教養」とはそんなものではない、
  といってみたところで、大なり小なり「教養」には、そんな
  胡散臭さがつきまとっている。


  村上陽一郎は、本を読んでる、ものを知っている、ということではなく、
  「自分の規矩(きく)は決して崩さず、しかしそれで他人を
  あげつらうことも、裁くこともなく、声高な主張から一切離れ、
  (中略)ただ静かに穏やかに自分を生きること、世間を蔑んで
  孤高を誇るのではなく、世間に埋もれながら自分を高く持すること、
  それを可能にしてくれるのが『教養』ではないか、と私は考えて
  いるのです」と前掲書で述べているが、それだって弁解に聞こえる。


  (注)
  規矩(きく):コンパスとか、かねじゃくの意。
        人の行為の基準となるもの。




 ・一方、高田里惠子は近親憎悪的に「教養とは何か」を問うている。

  「教養にはどんな効用があるのか」―。
  大正教養主義から80年代のニューアカデミー、そして、
  現在の「教養崩壊」まで、えんえんと生産・批判・消費され続ける
  「教養言説」を、その底に潜む悲喜劇的な欲望や、出版社との
  共犯関係・女性や階級とのかかわりなど、さまざまな側面から
  映しだしている。それは、知的マゾヒズムを刺激しつつ、
  一風変わった教養主義の復権を目指す、ちょっと意地悪な
  「教養論」論となっている。


 ・以上は、上記二冊の本にあった文章に、少し手を加えた宣伝文
  である。



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