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2014年02月05日04:35

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■獺祭備忘(7) 「釟三郎と漱石のロンドン」

●2014年02月06日(木)   <先付>

 ▼先日の「順不同(14) / 『平生釟三郎日記』をコピーする」で、
  この『平生釟三郎日記』の各巻についている「附録」のことを
  紹介した。

  平生釟三郎は、明治30年(1897年)12月末に、ロンドンの「ガウアーストリート
  76番地」に下宿し、のち「ウエストハムステッド・ブライオリ・ロード85番地」
  に引っ越し、ここで1年8か月暮らしている。
  そして、この3年後に夏目漱石もまた、この二つの宿に投宿した。

  「同じ宿」ということについては、マイミクの「matsubiskiさん」から
   
    「日本人が同じところに宿泊したり下宿したりするのは、
     不案内な地ではありえがちなことだと思います」

  とのコメントを戴いたが、「全くその通り」なのだ。


 ▼そして、二つの「宿」のうち後者については、釟三郎と漱石の記述する
  下宿の雰囲気が、全くちがっている。で、その事を次のように書いた。
 
    「漱石は、のちに『永日小品』に、この「ウエストハムステッド・
     プライオリ・ロード85番地」の思い出を書いているが、その印象は
     釟三郎とは全く異にする。
     さて、その原因は・・・、と(第3巻附録で)松村昌家は「謎解き」を
     やっている」

  では、この「謎解き」、果たしてどうだったのか。
  「matsubiskiさん」に、コメントのお礼もまだしていなかったので、
  第3巻附録所収の、松村昌家さん(元・甲南大学教授)の「平生釟三郎と
  夏目漱石 イン・ロンドン」を次に書き写す。

    ------------------------------


 ●『平生釟三郎日記』
   第3巻 附 録 2011年6月 
   甲南学園(刊)


  平生釟三郎と夏日漱石 イン・ロンドン

                       松村昌家

  −1−

  数年前にヴィクトリア朝のパブリック・スクールに関心をもちはじめてから、
  甲南大学在職中によく聞かされていた、平生釟三郎の教育理念としての
  徳育・体育・知育を思い出すことが多くなった。

  この三育主義が、パブリック・スクールをモデルにして成り立つていることは、
  定説になっているようだが、なんだか漠然とした感じを拭いきれない。

  イギリスのパブリック・スクールといっても、それぞれに異なった伝続と
  特徴があって、ひと括りにするわけにはいかない。

  私の見るところ、特に徳育、体育、知育となると、それは必ずしもパブリック・
  スクール全般にわたる特性の集約というよりは、むしろトマス・ヒューズが
  書いた小説『トム・ブラウンの学校時代』(1857年)に描かれた、ラグビー校
  の真髄を抽出したものである。

  日本で『トム・ブラウンの学校時代』に最も早く、そして積極的に反応を
  示したのは、新渡戸稲造だ(『武士道』第一章参照)。
  となれば平生釟三郎とのつながりも自然に想定できるのではないか。

  このような仮説を実体化するための手がかりとして、 『平生釟三郎自伝』を
  読みはじめた。昨年六月、安西敏三氏が私の問題解決のために役立つだろうと、
  提供してくれた書物である。

  果たせるかな、平生は甲南学園創設に際して、当時第一高等学校の校長で
  あった新渡戸稲造と接触を図っていたことを突きとめることができた。

  いずれ検証に取りかかるつもりをしていたところへ、安西氏から別の注文が
  入つた。ロンドンにおける下宿生活を通じて、平生と夏目漱石とのつながりを
  明らかにしてほしい、という課題をいただいたのである。

  一見思いもょらぬ課題だが、おそらく漱石研究者の誰も知らない事実が
  『平生自伝』の中に秘蔵されているのである。
  

  −2−

  平生は一八九七(明治三十)年三月に、東京海上保険株式会社・大阪支店長
  に就任し、同年十一月にロンドン支店監督に任命されて、アメリカ経由で
  十二月末にイギリスに渡る。そのときのことを、平生は『自伝』に次のよう
  に書き記している。

    サウザムプトン(ママ)より連絡列車に乗り、 ロンドンに着せる頃は
    夕刻なりしが、各務〔鎌吉、ロンドン支店における平生の前任者〕が
    迎へ、共共に馬車を做(やと)ふてガウアーストリート七十六番地
    (76,GoWer Street)の下宿屋に入りたり。(192−193頁)

  この文を読んだとき、「ガウアーストリート七十六番地」に注意を吸い
  つけられた。紛れもなく夏目漱石のロンドン最初の下宿屋と同じである。

  それから三年後、文部省留学生として一九〇〇年十月二十八日にロンドン
  に到着した漱石は、翌二十九日夜一時付で、妻鏡子あてに、 次のような
  手紙を書いている。

    小生只今の宿所は日本人の下宿する所にて 76 GoWer Street,London
    に候。是は旅屋より遥かに安直なれども部屋食料等にて六円許を要し候。
    到底留学費を丸で費ても足らぬ故、早くきり上る積に候。(句読点筆者)

  漱石の書簡には、ガワー・ストリート七十六番地が、「日本人の下宿する所」
  となっているが、平生の『自伝』では、先の引用につづいて、「この下宿屋
  は、初めて、日本より来れる者を収容することと海軍将校(日本)の常宿なるが
  如し」とある。

  平生がさらにつづけて書いているところによると、 この下宿屋にはエミリー
  という女中がいて、 彼女が下宿人相手の切り盛りをしていた。エミリーは
  日本人によく馴染み、日本人相手の待遇のし方も心得ていて、「エミリーある
  が故に、日本人が来集すると」いったありさまであった。

  漱石の場合は、大塚保治に紹介されてここに最初の下宿を定めたということで
  あるが、大塚というのは、,一八九一年に東京大学哲学科を卒業し、大学院に
  進んで美学を研究したのち、一八九六年から一九〇〇年にかけてドイッに留学、
  帰朝後に東大の美術講座の初代教授に就いた人である。

  彼もおそらく留学期間中にロンドンを訪れて、ガワー・ストリート七六に
  一時滞在したことがあったのかもしれない。

  漱石は大塚より二つ学年が下であったが、 大学院時代には同じ寄宿舎に入って
  親交があった。大塚の帰国が一九〇〇年七月、漱石がイギリスへ旅立つ二か月前
  であったことから考えても、彼が大塚を通じてロンドン最初の下宿を紹介して
  もらった可能性は考え得る。

  平生が果たしてどのくらいの間ガワー・ストリートの下宿屋にいたのか、
  定かではない。『自伝』によると、彼の前任のロンドン支店長、各務鎌吉が
  帰国の途についたのが一八九七(明治三十一)年三月で、その後すぐに彼は
  「一日も早くある家(family)に下宿」したいと思いはじめたとあるから、
  その期間は、大体三か月程度であったと考えてよいだろう。


  −3−

  日本人向けといったような専門の下宿屋よりも、 家族的な雰囲気の下宿に
  移りたいと思つた平生は、友人の勧めにより、中流家庭向けの日刊新聞
  『デイリー・テレグラフ』の広告欄に、「日本紳士が家庭の下宿人(paying
  guest)として良き家庭を求むるの広告」を出した。するとたちまち百通余りの
  応募の返信が送られてきた。

  その中から、文章の書き方や言葉の選び方などによって、教養のある中流家庭
  か否かを判断-、その所在地の土地柄や通勤の便などに至るまで、あらゆる点
  を入念に調べて、数軒の候補家を選抜した。

  そして、三井物産ロンドン支店の次席の職にあった犬塚信太郎同伴で、 それ
  らの家々を実地に見てまわった結果、「ウェストエンド線(West End Line)の
  ステーションに近きプライオリーロード」にある一軒の家を選んだ。

  家主の名は「ミルデ氏(Mr.Milde)」。といえば、漱石の研究家にはびんとくる
  だろうが、これは漱石がガワー・ストリート七六番地から移り住むようになる、
  彼のロンドン生活第二番めの下宿、すなわち、85 Priory Road, West Hampstead
  にほかならないのである。

  平生は、この家に白羽の矢を立てた理由として、まず今までに「下宿人を置き
  たる事」がなかったこと、そしてゆったりした居間と小さな寝室に、 朝晩の
  二食付きで週二ポンドの家賃が、比較的に安い点をあげている。

  このあたり、あとから述べる漱石と比べる両者のあいだの境遇だけでなく、
  性格の違いが見えてくるようで、興味深い。

  平生の記述によると、家主のミルデ氏は、もとナポレオン三世の宮 中裁縫師
  をつとめていたドイッ人であった。 ナポレオン三世の没落後(一八七〇年代初
  ということになる)ロンドンのウェスト・エンド(ファッションの中心地)に渡って
  きて、洋服屋を開いた。すでに六十八歳の老翁でありながら、ウェスト・エンド
  の高級テイラーとして、上流紳士や貴族連相手の商いをしていた。

  というわけで生活は比較的に裕福であったが、子どもたちが成人して独立し、
  部屋のゆとりができたので、細君が小使稼ぎの意味で、下宿を思い立つたよう
  だと、平生は見ている。

  そして彼の文章からは、ミルデ夫妻が、遠来の下宿人のために、誠意をもって
  サーヴィスにっとめたことが、読みとれる。

  最も印象的な例を一つあげよう。
  ある日平生が勤め先から帰つてきて、七時に夕食をとるために食堂へ入った
  ときのこと、そこには生花が飾られ、食器もナプキンも、テーブル・クロスも、
  すべてが平常と異なっていた。

  ミルデ夫妻はイブニング・ドレスを着て彼を迎えた。そこには長女の夫妻が
  来賓として出席しており、エドモンド(この家の長男) とメアリーも正装を
  整えていた。

  その日は一八九八年五月二十二日、平生の誕生日だったのである。
  「余は、全く英国に来り、自分の誕生日(バースデェイ)も忘れ居りたるに、
   彼等は能く記憶し居りて、万里の異境にある余の為に誕生祝賀会(Birthday
   Celebration)をなせるなり」。(198頁)

  このような好意に満ちた家庭的な雰囲気、「豪も下宿人より利益を搾らんとす
  るが如き行為絶無」の良心的な人びとのあいだで、平生は一度も他所へ移る気
  持ちを起さずに、任務を終えるまでの一年八か月を快適に過ごしたのである。


  −4−

  ここで漱石のほうへ眼を移そう。
  漱石がガワー・ストリート七六番地に下宿したのは僅か十五日間。下宿といえ
  ないほどの短期間である。その間に彼はケンブリッジ大学を訪れて留学の可能
  性を探つたが、 学費の遠く及ばないことを知つて、ケンブリッジ、オックス
  フォード両大学への留学を断念して、ロンドンに戻つた。

  そしてロンドン大学ユニヴァーシティ・コレッジでW・P・ケア教授の講義を
  聴講することを決めたが、大学とは日と鼻の先であったガワー・ストリートの
  下宿を引き払うことにした。一日六円の下宿代が惜しかったからである。

  そして次に移つたところが、ウェストハムステッド・プライオリ・ロード八五番地、
  すなわちかつて平生が入つていた下宿家であることは、先に述べたとおりだ。

  漱石はのちに『永日小品』の「下宿」と「過去の臭ひ」の中で、ここにおける
  下宿生活の思い出を語つているが、その中にKという人物が登場する。
  長尾半平のことで、漱石より二歳年上、東京帝国大学工科大学土木科卒業後
  内務省を経て、台湾総督府の役人になっていた。

  総督の後藤新平の命によってヨーロッパ出張中で、時間と金を好きなだけ使え
  る立場の、特権階級の一人であった。「過去の臭ひ」には、下宿生活における
  漱石と長尾との付合いの模様が、いろいろと語られている。そして長尾もまた、
  「ロンドン時代の夏日さん」(岩波1928年版『漱石全集』(月報第5号)と
  題して、この間の思い出の記を書いている。それぞれに、プライオリ・ロード
  八五番地の下宿生活における漱石と長尾との貧富の格差が鮮明に浮き彫りにさ
  れていて、『文学論』序に吐露されているような、 漱石の心情を思い起こさせる。

  「下宿」に語られている漱石の印象から察するならば、平生が去ってから僅か
  三年足らずの間に、ミルデ家の雰囲気は、大きく変わったと思わざるを得ない。
  まず全体的にいうと、ミセス・ミルデが死んで長女が「主婦」となっており、
  家族の間からは、平生が享受したような家族らしさがすっかり消えてなくなっていた。
  ミセス・ミルデの亡きあと、複雑な家族関係が、いろいろな軋標を引き起こす
  原因となったようだ。

  平生が言っているように、 ミルデ氏はかつてナポレオン三世の宮中裁縫師だった
  ドイッ人だが、 夫人はフランス女だ。 そしてともに前夫人、前夫と死に別れた
  あと、再婚によって結ばれた間柄である。

  漱石のいう「主婦」(長女)は、母親がミルデ氏と再婚するときの連れ子であり、
  また彼女が「my brother」と言つて漱石に紹介した「四十格好」の男は、ミルデ氏
  と先妻との間に生まれた長男である。つまり、「主婦」の立場からいうと、
  ミルデ氏は血のつながりのない父であり、長男は血のつながりのない兄だった
  のである。

  「兄弟とはどうしても受取れない位顔立ちが違つてゐた」と、漱石が訝ったゆえん
  である。このような家族構成のなかで、漱石が一際深い関心を寄せたのは、
  この家で女中のように使われている、十三、四歳の少女だ。その顔が、今言った
  主婦の兄と似ているのに、漱石は何らかの秘密を疑っていたようだが、 平生の
  文章に照らして考えれば、その類似の謎解きは、さほど困難ではない。

  そこでもう一度、平生の誕生日祝いの場における家族の集いをふり返つてみよう。
  そこにはミルデ夫妻と、長女夫妻のほかに、エドモンドとメアリーが、正装して
  参加していた。エドモンドは長男だということを平生は明らかにしているが、
  彼とメアリーの関係については一言もふれていない。しかし二人が密接な関係
  にあったことは疑い得ない。 アグニスを、彼らの間にできた子ども──おそらくは
  私生児であったと推理すれば、すべての謎が氷解する。
  漱石が不審がる父と子(エドモンド)との不仲の理由も、そのことによって説明
  できるのである。

  それにしても、さんざん苦労して折角「東京の小石川といふ様」なところに
  探し当てた下宿が「いやな家でね、且つ頗る契約違背の行為があった」(一九
  〇一年二月九日、狩野亨吉ほか宛書簡)のでは、彼が落ち着いていられなかった
  のは、当然だろう。彼はひと月もたたないうちに、今度は「深川のはづれと
  云ふ様な所へ」移るが、行った先にはそれ以上の不満の種が待ち受けていた。

   (まつむらまさいえ・元甲南大学教授)

 
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★ナラトさん担当の「メモ」

 ▼『獺祭備忘』シリーズ  (What's new: 2014/02/06)
  2014年02月06日 ■獺祭備忘(7) 「釟三郎と漱石のロンドン」
  2014年02月02日 ■獺祭備忘(6) 「賀川豊彦」の足跡と著作
  2014年01月31日 ■獺祭備忘(5)  住吉村「観音林倶楽部」
  2014年01月28日 ■獺祭備忘(4) 『平生釟三郎日記』 と 『平生釟三郎自伝』
  2014年01月27日 ■獺祭備忘(3) 毎日新聞『NHK会長人事』
  2014年01月26日 ■獺祭備忘(2) 小川守正・上村多恵子『平生釟三郎伝』
  2014年01月25日 ■獺祭備忘(1) 隅谷三喜男『賀川豊彦』

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