■G討のこと
●西宮の、甲子園口三丁目と荒木町に住んでいたころは、私は
「G討」(グループ討論)という、仲間の活動にどっぷり浸かっていた。
「反執行部」という労組活動の集まりみたいなものだった。
当時の執行部は、社会党系と共産党系と企業内派の「三派連合」
だったが、私たちの「G討」は、執行部が「労働者を裏切らない」
あるいは「裏切れない」ようにするのが大きな役目だった。
塚本に独身の仲間がおり、そこで会議をやった。家に帰り着くと
午前2時、3時はざらだった。そんな状態で、仕事をやった。
ある晩、脂汗を流すほどの胃の痛みがあり、うずくまって夜が
明けるのを待った。「胃潰瘍」だった。入院は免れたが、以来、
無理をしたときは、いまでも胃がシクシク・キリキリと痛む。
●だから、日曜日は、ただ睡眠のための日だった。長男は自分の
野球がヘタなのは、私がいっしょにキャッチボールをしなかった
ためだと、いまだに思っている。武庫川の土手でいっしょに
遊んだこともあるのに、思い出すのは「お父さんは疲れているから
ねかしてやんなさい」という妻の制止の言葉ばかり。
西宮に住んでいながら、阪神パークも、宝塚ファミリーランドにも
連れていかなった。たまに行くのは「王子動物園」。ここの
ベビー・コースターが我が家の人気だった。
■24回、住宅公団の「空き家募集」にハズれて、無抽籤で空き
アパートの斡旋があった。神戸市と明石市にまたがる「明舞団地」
の3Kに引っ越した。
74春闘では、私たちの労組も72時間ストライキを構えた。
狂乱物価や時代の動きは、そのくらい「戦闘的」にならざるをえない
状況をつくっていた。闘争はいつのまにか、「生協民主化」が
メインになった。G討のメンバーでリーダー格のTさんの
言うことがこれまでと変わってきた。
「ものとり闘争ではダメだ。生協の民主化が大切だ」
78年には、執行部が二つに割れた。社会党系と、共産党系・
企業内派連合のふたつだ。激しい労組役員選挙が戦われ、
社会党系は労組から追い出された。
「生協を守れ」の大合唱になった。
■明舞団地の「松ヶ丘」は、いいところだった。広い松ヶ丘公園が
あり、団地の棟と棟の間隔が十分取られ、緑も多かった。
子供を連れて、朝霧駅から神陵台まで続く、広大な団地群を
「団地めぐり」と称して歩いた。
でも、子供たちには、私といっしょに散歩した記憶はあまり
ないようだ。
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