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2006年03月15日22:56

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●寄り道ついで (78)/■家の中(3)

■G討のこと

 ●西宮の、甲子園口三丁目と荒木町に住んでいたころは、私は
  「G討」(グループ討論)という、仲間の活動にどっぷり浸かっていた。

  「反執行部」という労組活動の集まりみたいなものだった。


  当時の執行部は、社会党系と共産党系と企業内派の「三派連合」
  だったが、私たちの「G討」は、執行部が「労働者を裏切らない」
  あるいは「裏切れない」ようにするのが大きな役目だった。


  塚本に独身の仲間がおり、そこで会議をやった。家に帰り着くと
  午前2時、3時はざらだった。そんな状態で、仕事をやった。
  ある晩、脂汗を流すほどの胃の痛みがあり、うずくまって夜が
  明けるのを待った。「胃潰瘍」だった。入院は免れたが、以来、
  無理をしたときは、いまでも胃がシクシク・キリキリと痛む。



 ●だから、日曜日は、ただ睡眠のための日だった。長男は自分の
  野球がヘタなのは、私がいっしょにキャッチボールをしなかった
  ためだと、いまだに思っている。武庫川の土手でいっしょに
  遊んだこともあるのに、思い出すのは「お父さんは疲れているから
  ねかしてやんなさい」という妻の制止の言葉ばかり。


  西宮に住んでいながら、阪神パークも、宝塚ファミリーランドにも
  連れていかなった。たまに行くのは「王子動物園」。ここの
  ベビー・コースターが我が家の人気だった。



 ■24回、住宅公団の「空き家募集」にハズれて、無抽籤で空き
  アパートの斡旋があった。神戸市と明石市にまたがる「明舞団地」
  の3Kに引っ越した。

  74春闘では、私たちの労組も72時間ストライキを構えた。
  狂乱物価や時代の動きは、そのくらい「戦闘的」にならざるをえない
  状況をつくっていた。闘争はいつのまにか、「生協民主化」が
  メインになった。G討のメンバーでリーダー格のTさんの
  言うことがこれまでと変わってきた。

  「ものとり闘争ではダメだ。生協の民主化が大切だ」


  78年には、執行部が二つに割れた。社会党系と、共産党系・
  企業内派連合のふたつだ。激しい労組役員選挙が戦われ、
  社会党系は労組から追い出された。


   「生協を守れ」の大合唱になった。






 ■明舞団地の「松ヶ丘」は、いいところだった。広い松ヶ丘公園が
  あり、団地の棟と棟の間隔が十分取られ、緑も多かった。

  子供を連れて、朝霧駅から神陵台まで続く、広大な団地群を
  「団地めぐり」と称して歩いた。


  でも、子供たちには、私といっしょに散歩した記憶はあまり
  ないようだ。



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