アゴタ･クリストフの『悪童日記』を読む。
10/1の日記に感想を書いた、稲垣直樹の「サドから『星の王子さま』へ」の最終章で、この作者が取り上げられていた。
ゆかっぺさんからはお読みになったとのコメントを頂いた。
2001年発行早川書房ハヤカワepi文庫。
日本語での初訳単行本は1991年出版。
アゴタ･クリストフは1935年ハンガリー生まれの女性作家。
1956年のハンガリー動乱時に、夫と乳児と伴に、オーストリア経由でスイスに亡命。現在も同地ヌーシャテルにいる。
言語は仏語圏であり、この作品も、1986年、この地へ来てから学んだフランス語で書かれ、パリから出版された。
その後『ふたりの証拠』(1988)『第三の嘘』(91)が書かれ、3部作を構成している。
物語では、第2次大戦末期から戦後にかけた数年間、オーストリア国境に近い田舎町を背景に、双子の子供達が見聞、体験した様々な事柄が描かれている。
母親が、2人を連れて、ブダペスト(と思われる都会)から、祖母のいるクーセグ(と思われる田舎町、作者の生地でもある)へ疎開してくるところから始まる。母親は、2人を置いて、生活の場である都会へ帰っていく。
この時代と場所の設定が、何よりもまず重要なキーだ。
ハンガリーは、第1次大戦後、ハプスブルク家の支配するオーストリア=ハンガリー帝国の解体(1918)により、単独の王国に戻ったが、第2次大戦勃発(1939)後、ナチス･ドイツの力の影響下でいわゆる枢軸国側に参加(1940)、連合国の米英と戦うというより、地の利から、ナチスのモスクワ戦線の先棒を担がせられる事となった。
物語の終盤で、離れていた父親との再会が描かれるが、彼はモスクワでの敗戦の後シベリアに抑留されていたらしい。
話しが逸れるが、抑留者がある日、船でなく歩いて帰ってくるというのは、我々からすると驚きに値する。ヨーロッパとロシアは、そしてシベリアは陸続きなのだ。
占領軍も戦艦で突然海の向こうからやってくるのでなく、今日は近隣のあの国、今日はその国境線を越えた、今日はあの町迄来た、と、物語からは足音が聞こえてくるようだ。陸が続いているという感覚は、我々島国民族の生来の感覚と大変違っていて、驚いた。
話しを戻すが、敗戦色濃くなった1944年には、ハンガリーはドイツに併合され、独軍が同国内の主要地に駐留する。
それらの壊滅の為、ソ連軍はポーランド、チェコを越えて南進してくる訳だ。
1945年、終にソ連の一端は物語の舞台にも現れ、しばらく後には、ドイツの首都ベルリンに西から米英軍、東からソ連軍が押し寄せ、ドイツは無条件降伏、第2次大戦は終結する。
ハンガリーの名目王制は廃止され、人民共和国となり、ソ連、スターリン指導の下、社会主義国としての歩みを始める。
軍国主義から社会主義へ、一党独裁、全体主義の色が変わっただけだと言えなくもない。
双子の兄弟は、こうした変化の中を生き延びるのである。
ドイツ軍の将校と従卒が、祖母の家の1室を使用している。近い国境線にはバリケードがある。強制収容所へ移送される人の列を見る。知り合いのユダヤの女の子を従姉として家にかくまう。町の空を通過して都会へ向かう飛行機。いつかこの田舎町にも爆弾が落とされるようになる。生活の場が戦場になる。
祖母は、文盲で粗野で吝嗇、2人の庇護者になるつもりはない。
食料は畑から、家畜から、自分達の労働で確保する。薪は森に取りに行く、そこには脱走兵の死体が転がっていたりする。母に持たせられたバッグの中の衣類は、祖母が金に換え、2人の着たきりの衣服は汚れ放題。冬を越すのに靴は穴が開く。
2人は、自分の判断で、生き抜く為の行動を選択する。物乞いもするし泥棒もする。脱走兵の兵器を持ち逃げした事で、警察に拷問を受けもする。
道徳は回りの人々の何をも律せず、大人の言う事は当てにならない、教会の神父も性的な事件に係わっている事を知る。双子は神父を恐喝もする。
モラルと大人(親、隣人、地域や国)と宗教が、何の道筋も価値も示せない中を、子供は自立し、成長し、凄まじく生き抜くのである。
2人は自分で学び取り、何からも独立した判断をし、したたかに生きる。ある時は冷酷に、ある時は逞しく。それは時代が違えば、”非行”と呼ばれる事もあるだろうけれども。
タイトルの『悪童日記』の”悪童”の所以である。
しかし、原題は『大きなノートブック』というそっけない意味で、邦題『悪童日記』は、翻訳者、堀茂樹が、中身から飛躍させたものである。
物語は、双子が直接書いた、戦下の尋常ならざる日々、”ぼくら”の見聞きと体験の、日付のない日記、という体裁である。
文体は、”ぼくら”が書いた、飾りのないポキポキした短文だが、実は、作者の意図が隠されている。
双子は自分達のノートへの書き方を定める。
あるがままを書く。見た事や物、実行した事そのものである。
心情的な言葉は使わない。例えば「美しい」、それは誰かにとっては美しいかもしれないが、誰かにとっては醜い。
「感情を定義する言葉は、(中略)漠然としている」から避ける。例えば「好き」、その意味は使われた場所によって意味が甚だしくことなって「正確さと客観性に欠けて」いる。
漠然としたもので、自分を含めた人間達の評価や扱い(生死も含めた)が如何ようにもなる事を、身をもって経験してきたからだ。
結果として、文体は、事、物、行為だけが修辞なしで語られる。情感も抒情もそこにはなく、当然潤いは消え、乾き切っている。
解釈や主観、観念、理屈、それらの持って回って層を重ねた表現はない。書かれた世界は、表層のみである。
しかしながら、文章を読んだ我々には、意外にも即物的でなく、時にある種の詩的なものが残る。これは不思議な感覚だ。
“ほくら”の作文のルールは、クリストフの文体に向けた決意表明でもある。
彼女の半生の経験が、その決意をさせた。
“ぼくら”の母親は、ある日2人を迎えに来るが、祖母の家の前、彼等の目の前で、爆弾で吹っ飛ぶ。胸には、父親の違う乳飲み子が抱かれたまま。
祖母は、脳卒中で倒れ、生前の彼女の指示に従い、麻痺で動けない体に毒物を含ませる。
父親は、戦後、シベリアから戻った後、刑務所に繋がれ拷問を受け、国外逃亡を図り、手伝った2人の前で国境線の地雷を踏む。
天涯孤独となった “ぼくら”は、その国境線で別れ、1人は、動かなくなった父の体の上を踏んで、隣国に渡り、もう1人は、祖母の家へ戻る。
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