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2008年11月14日23:16

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黒沢清『トウキョウソナタ』

久し振りに映画の日記を書くなあ。
オペラばっかり聴いていたからなあ。


総論は書くつもりはない。
どこからアプローチしようか、と考えると、冒頭のタイトルバックの映像が強く脳裏に戻ってくる。

家の中に強い風が吹き込み、電話帳のページがめくれていったり、新聞が飛んだりする。
カメラが家の中を追い駆けていくと、リビングの窓が開いて、そこから風が入ってくるのが判る。
雨も降り込んできた。
顔の見えぬ女性がバタバタと小走りにやってきて、窓を慌てて閉め、濡れた床を拭く。
しばらくそうしていると雑巾を持つ手がふと止み、もう一度女性は窓を開ける。吹き込む雨風の向こうをぼんやりと眺める。
そんな後姿をカメラは収め、そしてカット。

連続性は絶たれ、さて本篇、とこんな感じ。
あの部分だけでは何の理解も与えないから、観客は思う、これの意味が後からやってくるのだろうなあ、と。
しばらくは、それを待ちつつ観客は映画を見るが、そのうち忘れてしまう。
そして最後迄直接的な脈絡は映画にない。

映画は、バラバラになってしまう家族(都会のと限定的な修辞をした方がいいか)を描いている。
父親(香川照之)の権威への妄想が、一層それを助長してしまう。
彼は会社をリストラでクビになっても、それを家族に話す事ができない。
その後も毎朝ネクタイを締めて家を出ていく。

大学生の長男(小柳友)はバイトばかりで、ろくに家にいない。唐突にも、アメリカに行って軍に入隊すると言い出す。
小学生の次男(井之脇海)は、給食費を流用し、親には内緒でピアノを習いに行き始める。
個の悩みを内に抱えるのは何処の子供も同じだが、親に相談しても仕方ないと思っている。
父親はすぐNo!と言い、感情的になる。何より権威が大事で、しかも自身は隠れ失業中の男に、人の話を聞き理解する度量はない。
母親(小泉今日子)は、その間に入ってはくれるが、自分の考えを主張する事はなく、ただ毎日食事を作り、形ばかりの一家団欒に汲々とする。
現代、よく転がっている話(都会にはと修辞した方がいいか)として、監督は、家族の崩壊への道程を淡々と描いていく。

さて、今にして思えば、あの窓(雨風降り込む)から入ってきたのは、会社をクビになった日のこそこそした夫と、終盤の泥棒である。
泥棒(役所広司)は、主婦を包丁で脅して連れ出し、車の運転をさせ、逃走する。
どうしようもないダメ人間、と自分を思い込んでいる泥棒は、宛もなく逃げ、行き当たりばったりで、やる事言う事、哀れで滑稽でさえある。
自暴自棄になろうとする泥棒に、主婦は、初めて自分の意見を言い、諭す。

主婦はそれによってこれ迄の自分の”空洞”を感じる。
自分がしてきた事は、家の中にいて、日々何も考えず主張せず、食事とその場を作ってきただけだ、と。
そこでは家族が黙ってただ食べ、新聞を読み、そしてそれぞれ自分の部屋へ帰っていく、その繰り返し。自分は昨日も作ったドーナツの穴のようなものだ、と。

泥棒との遭遇は、包丁で脅かされてとは言え、”家を出ていく主婦”の象徴の招来でもある。
そうして、彼女は家を捨て、自分を主張する女になる。
冒頭で、雨風の吹き込む窓を開けてボーッとしていたのは、嵐の向こうから来る何かを待っていた女の姿である。
嵐は、夫の失職であり、泥棒である。

夫の帰りが遅く、ついついソファで寝込んてしまった彼女の、短く不思議で生々しいエピソードがあった。
寝た恰好で、目覚め切らぬまま、家に帰った夫に「食事は?」と問うと、「外で食べた」とだけ言い、彼は妻を無視して2階へ。
話し相手を途中で失った彼女は、宙に手を伸ばし「私を引っぱって。私を起こして」と、夢うつつに言う。
カメラは、薄暗がりで中空に伸びた彼女の手を、切なく捉える。ここのトーンは、そこ迄のリアリスティックな手法と如何にも違って、観る者の脳裏に焼き付く。
でも、ただ家の中にいて、誰も自分を引っぱり上げてくれる者はいない。言わば、窓の外から、嵐の向こうから、それは(そのきっかけは)やってくるしかないのか。

これが、私なりの、冒頭のシーンへの答えだ。


エンド直前のシーン作りには、私は少々異議を持っている。
黒沢監督は、それを、崩壊した家族の最後の希望とか救いという言い方をしている。

家族は、皆、それぞれの形で家から逃亡する。
母親のそれが、上述した泥棒との遭遇によるもの。それぞれに事件が起こり、しかし、アメリカに発った長男以外、結局家にとぼとぼと帰ってくる。
しばらくして、次男の音大付属中学へのピアノ実技試験の場。
ピアノ演奏に天才的なものがあると、次男が隠れて通った個人教師(井川遥)が説得した結果なのだろう、両親も見に来ている。
次男はドビュッシーの『月の光』を弾く。その演奏は、付き添って来た親達、教師達をも惹き込んでいく。
父親は、初めて息子(の演奏)をじっと見つめ、聴く。それが人間理解のスタートである事は言うを俟たない。
父親の眼は次第に潤む。
共感のシーンで、父親の変化には異論はない。
しかし、息子が天才的な少年だとしてしまった事、完璧な技術で感動的な、(勿論プロの演奏の代弾きによるのだが)完成された音楽にしてしまった事の方に、異論がある。

黒沢監督は、何処の家庭にも起こり得る事として、この家族の危機を描き続けた。
にも係わらず、最後は天才的少年の稀有な演奏で、家族の変化への希望を見出し、映画を閉じようとした。
ここだけは、私の、またあなたの家には起こらない"特別な事"なのだ。
私は、最後迄、"何処にでも転がっている事柄"を撮って欲しかった。
例えば、少年は頑張って弾いたが、訥々として間違えもし、音楽的な感性もまだまだ、と、どうしてできなかったのか。
それでいて彼の演奏を見つめる両親の眼差しと反応は上と全く同じ、そういう発想が生まれなかったのが残念だ。


最後に、もうひとつだけ印象に強く残った場面を付け加えておきたい。

家の近くに坂道の三叉路がある。
幾度か、今日も職探しに失敗した父親と、学校仲間の中で浮き上がって疲れた表情の次男が、帰り路、そこで出会う。
挨拶もろくにせず、でも一緒に家帰る。
家には、いつも母親が作った食事がある。
この坂を、それぞれの逃亡失敗の後、3人は、疲れ果て、とぼとぼ歩いて家に帰る。今度はひとりづつである。
しかし、この坂の先には、食卓と食事が待っている予感がある。
解決等なくてもよいではないか、そこに食卓があり、母親の作った食事がある。
そんな簡単に解決がやってくる訳もない、でも、帰ればこの場所がある、それが何より大事ではないか。
急に会話が弾む等という事もないだろう、表向きはそこに何の主張もないかもしれないが、ドーナツの空洞である事はない筈だ、この大事さに気付きさえすれば。

監督・脚本 黒沢清
共同脚本 マックス・マニックス,田中幸子
撮影 芹沢明子
音楽 橋本和昌
受賞 カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞
 
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