mixiユーザー(id:1040600)

2006年02月28日01:28

78 view

●寄り道ついで (62)/■「教養」と「漢字」 (3)

■外国の「ことば」や「文字」を受容する

 ・この本、加藤徹「漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか」が
  面白いのは、類書のように単なる「漢文の素養のすすめ」ではなく、
  私たち日本人が知らず知らずのうちに心性として「神や仏」を
  持っているように、日本文化の基底となる「ことば」そのものが
  「漢字・漢文の素養」の海で生きているという史実を明らかに
  している点だ。


 ・また、外国で生まれた「文字」や「概念」、そして「文化」を
  受容するとはどういうことかを、大昔の「漢字渡来物語」を
  語るようにして、実はきわめて現代的な課題として提出している
  からである。


 ・「英語第二公用語論」や「日本語のアルファベット表記」などを
  真剣に考えている人たちがいるという。「ことば」と「文字」の
  成り立ちを真剣に考えての所見なんだろうか、と思う。



 ・前回、書いたように、古代ヤマト民族は文字を持たなかった。
  文字(漢字)にふれても、これを使用することをしばらく躊躇した。

  威信を誇示するためにこれを用いたが、記録・伝達など実用の
  ために使用するようになるまでには、「文字」を知ってから
  約500年を要した。そのくらい、古代ヤマト民族は「ことば」や
  「文字」に慎重だった。



 ・ところで、人間の「教養(素養)」とは何だろうか。
  また、「教養(素養)」とは何をいうのであろうか。



 ・私はこう考えている。
  ある人が、「あれネー」と言えば、それを受けて「そう、
  あれネー」と対応できる、その「了解項」としての「あれ」こそが
  「教養(素養)」というものの本質ではないかと思う。



 ・「あれ」の中身は、国や地域、時代や社会、階層や帰属などによって
  変わってくる。また、それを論ずる人(びと)のそれぞれの
  「目的」によっても変わってくる。


 ・「目的」の関連で言えば、こう言い換えてもいい。

  ある「A」というものが「A」であるために、または、
  「A」となるために最低限必要とされるか、あるいは一般に
  これだけは必須というような「共通の知」、これが「教養」であり、
  「素養」である。


 ・ある「A」にとっての「教養・素養」をもっている「Aグループ」の
  人々は、Aの「あれ(共通の知)」を共に持っているから共通の
  基盤で交流できる。




 ・この最も基本となるものが「ことば」だ。人間の人間たるゆえん、
  人間が人間となるためには「ことば」が必要だ。


  そして、次に「文字」も必要だ。「文字をつづった文章」、
  「命題」も必要だ。


  そして、過去の人や現在の人の名前や、それらの人の作品も
  知らなければならない。作品だけでなく、その人の人生、
  どんなことを考え、どんな生き方をしたも知っておかねばならない。


 
 ・そして、人の名前だけでなく、場所の名前や時の名前、また
  そこはどんな所で、どんな出来事があり、どんな関係でそれらは
  あるのか。

 ・動物や植物、海や山、空・雲・日・月・雨・雪もある。
  食べ物・道具・暦や心の動きだってある。
  光や色や風の音も・・・。


 ・そして、それらは「ことば」と「文字」で表される。
  ヤマトの「ことば」と「文字」が生まれる。
  そのとき、外国の「ことば」と「文字」はどう受容されるのか。


  これは、かつてヤマトに起きた「漢字・漢文」の問題であり、
  現在の日本に起きている「アルファベット・片仮名外来語・
  英語」の問題でもある。

         (つづく)


 ■案内
 ・日記「総目次」 −テーマ別−
 ・「Home」&「更新記録」

0 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する