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2006年02月19日20:10

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●寄り道ついで (53)/■平野謙

■「昭和文学の可能性」

 ・いま、広津和郎「あの時代」をゆっくり読んでいる。
  広津和郎といえば、「松川事件」で有名で名前は知っていた。
  しかし、実際に私が、広津和郎がどんな人物でどんなことに
  関心を抱き、何を考えていたかを知ったのは、平野謙「昭和文学の
  可能性」(岩波新書 青818)を読んでからである。


 ・私はその本の中で、昭和22年6月に刊行された広津和郎の
  評論集「散文精神について」と、広津の昭和11年10月18日の
  『人民文庫』での講演メモのことを教えられた。


  「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、
   みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神
   ──それが散文精神だと思います」


 ・平野謙が、語呂が気に入ったせいかもしれないが、いつとはなしに
  暗誦し、「みだりに悲観もせず、楽観もせず」というフレーズを
  ときどき口にしたように、私も何かのときに、このフレーズを
  口にしてきた。


  それは、平野謙が同じ本で、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」に
  ふれ、そこに登場する原爆病院・重藤文夫院長のすがたを要約した

  「広島の現実を正面からうけとめ、絶望しすぎず、希望を
   もちすぎることもない、そのような実際的な人間のイメージが
   うかびあがってくるように思われる。僕はこのようなイメージの
   人間こそを、正統的な人間という名で呼びたいのである」

  という大江建三郎の文章にもにつながっていく。



 ・平野謙のこの「本」は、「散文精神について」のほかにも
  文学や政治や人生について多くのことを教えてくれた。


  広津和郎は、こんなことも書いている。(散文藝術の位置)


  「澤山の藝術の種類の中で、散文藝術は、直ぐ人生の隣りに
   ゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、
   いろいろの藝術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。
   −−そして人生の直ぐ隣りと云ふ事が、認識不足の美學者などに
   云はせると、それ故散文藝術は藝術として最も不純なもので
   あるやうに解釋するが、併し人生と直ぐ隣り合せだといふ
   ところに、散文藝術の一番純粹の特色があるのであつで、
   それは不純でも何でもない、さういふ種類のものであり、
   それ以外のものでないと云ふ純粹さを持つてゐるものなのである。
   音楽が一番純梓な藝術だといふ説などは、随分世に流布されて
   ゐるが、これも藝術にいろいろの種類があり、その種類に
   それぞれその性質があるといふ事を考へた事のない、認識不足の
   美學者のたはごとである」



 ・マイミクシの「パッポヒ」さんに一読をすすめたので、自分も
  読み始め、その中に出てくる芥川龍之介のことを書こうと
  思ったが、そこまできょうはいかなかった。

  日記「芥川龍之介」、タイトル「七文半の足袋」は次回になる。



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