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2006年02月11日14:36

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●寄り道ついで (46)/■ヤバイ人(7)

■「カネ」を克服する(2)

 ▼両親と別れて8か月くらい経って、なんとか宮崎での生活のめどが立ったので、
  小学校4年の夏休みに、私と妹は、祖母に連れられ淡路から宮崎に行った。


  淡路の小学校で、社会の時間に「台風銀座・宮崎」と習った。
  宮崎に関しては、そのくらいの知識しかなかった。



 ▼淡路の湊からバスで洲本に出て、洲本からは船で神戸・中突堤に着いた。

  神戸からでも、宮崎は遠かった。
  九州に入り、列車は単線の日豊本線をゆっくり走った。

  急行列車は途中、何回も無人駅で停車し、上り列車を待った。
  宗太郎峠を越えるあたりでは、蒸気機関車の煤煙が入らぬよう、列車の窓を上げたり
  下げたりした。


 
 ▼私は母に連れられ、児童のいない夏休みの小学校に来た。
  夾竹桃が咲いていた。

  まぶしい陽光だった。

  母が編入手続きをし、私は金網の張られた「小鳥舎」を見た。
  カナリヤやインコや十姉妹が、人気のない昼下がりの静かな校舎でさえずっていた。



 ▼宮崎のメインストリートは、大淀川の橋の袂から北へ走る国道で、檳榔樹(びろうじゅ)が
  中央に植えられて、その左右を宮崎交通のブルーと白のツートン・カラーのバスが走る
  目抜き通りの「橘通り」だった。

  1丁目から6丁目まで、ずっと商店が軒を連ね、広い歩道にはアーケードがかかり、
  いまよりずっと賑やかで、市の近郊からも人々はやってきた。


  1丁目のロータリーにはデパートの「山形屋」があり、
  6丁目のロータリーには「橘百貨店」があって、1丁目から6丁目までのメインストーリート
  には、いつも人が行きかっていた。


 ▼橘通り3丁目の角の「みしろ」から西に折れると、ここもアーケードがかかった
  「大成銀座」の商店街が続いていた。
  その突き当りが、松竹系の映画館「大成座」だった。
  
  この「大成座」を起点にして、北に向かって「西橘通り」が走っていて、この通りには
  飲食店やパチンコ屋、喫茶店が並び、市の繁華街となっていた。

  また、北西に向かっては「黒迫通り」の町並みがあり、橘通り5丁目で「若草通り」の
  東西に連なる商店街と交わるあたりに映画館「東映」があった。



 ▼「大成座」の前で交差する二本の通り、「西橘通り」と「黒迫通り」に挟まれた三角形の
  空き地には、露天商が店を出し、にぎわっていたが、私たちは「はらっぱ」と呼んでいた。

  「はらっぱ」と橘通りとの間あたりに、「ライオン市場」や「青空市場」があって、庶民の
  日々のくらしの野菜や肉や魚、てんぷら、乾物、惣菜、うどん、豆腐、蜂蜜、練炭、米、
  ふとん、酒饅頭、衣料品、端布、手芸品、などを売っていた。


 ▼その「ライオン市場」からは、「西橘通り」に抜ける細い路地があった。

  細い細い路地で、左右には間口一間の「飲み屋」が十数軒並んでいて、
  飲み屋以外には、「うどん屋」と「公衆トイレ」があった。
  
  「○○○横丁」と名づけられたその路地の一番奥に「一の字」という飲み屋ができた。

  それが、私たちの父母が宮崎ではじめた、暮らしのための「お店」だった。


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