■「カネ」を克服する(2)
▼両親と別れて8か月くらい経って、なんとか宮崎での生活のめどが立ったので、
小学校4年の夏休みに、私と妹は、祖母に連れられ淡路から宮崎に行った。
淡路の小学校で、社会の時間に「台風銀座・宮崎」と習った。
宮崎に関しては、そのくらいの知識しかなかった。
▼淡路の湊からバスで洲本に出て、洲本からは船で神戸・中突堤に着いた。
神戸からでも、宮崎は遠かった。
九州に入り、列車は単線の日豊本線をゆっくり走った。
急行列車は途中、何回も無人駅で停車し、上り列車を待った。
宗太郎峠を越えるあたりでは、蒸気機関車の煤煙が入らぬよう、列車の窓を上げたり
下げたりした。
▼私は母に連れられ、児童のいない夏休みの小学校に来た。
夾竹桃が咲いていた。
まぶしい陽光だった。
母が編入手続きをし、私は金網の張られた「小鳥舎」を見た。
カナリヤやインコや十姉妹が、人気のない昼下がりの静かな校舎でさえずっていた。
▼宮崎のメインストリートは、大淀川の橋の袂から北へ走る国道で、檳榔樹(びろうじゅ)が
中央に植えられて、その左右を宮崎交通のブルーと白のツートン・カラーのバスが走る
目抜き通りの「橘通り」だった。
1丁目から6丁目まで、ずっと商店が軒を連ね、広い歩道にはアーケードがかかり、
いまよりずっと賑やかで、市の近郊からも人々はやってきた。
1丁目のロータリーにはデパートの「山形屋」があり、
6丁目のロータリーには「橘百貨店」があって、1丁目から6丁目までのメインストーリート
には、いつも人が行きかっていた。
▼橘通り3丁目の角の「みしろ」から西に折れると、ここもアーケードがかかった
「大成銀座」の商店街が続いていた。
その突き当りが、松竹系の映画館「大成座」だった。
この「大成座」を起点にして、北に向かって「西橘通り」が走っていて、この通りには
飲食店やパチンコ屋、喫茶店が並び、市の繁華街となっていた。
また、北西に向かっては「黒迫通り」の町並みがあり、橘通り5丁目で「若草通り」の
東西に連なる商店街と交わるあたりに映画館「東映」があった。
▼「大成座」の前で交差する二本の通り、「西橘通り」と「黒迫通り」に挟まれた三角形の
空き地には、露天商が店を出し、にぎわっていたが、私たちは「はらっぱ」と呼んでいた。
「はらっぱ」と橘通りとの間あたりに、「ライオン市場」や「青空市場」があって、庶民の
日々のくらしの野菜や肉や魚、てんぷら、乾物、惣菜、うどん、豆腐、蜂蜜、練炭、米、
ふとん、酒饅頭、衣料品、端布、手芸品、などを売っていた。
▼その「ライオン市場」からは、「西橘通り」に抜ける細い路地があった。
細い細い路地で、左右には間口一間の「飲み屋」が十数軒並んでいて、
飲み屋以外には、「うどん屋」と「公衆トイレ」があった。
「○○○横丁」と名づけられたその路地の一番奥に「一の字」という飲み屋ができた。
それが、私たちの父母が宮崎ではじめた、暮らしのための「お店」だった。
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