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2006年02月07日00:47

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●寄り道ついで (39)/■親近感

■「時」を越えて

 ・高見順が「私生児」で、実の父に冷たくされたこと、血の通っていない
  父を親にもったこと。

  そんな出自からもっとも自然に形作られる「性格」。
  コンプレックスと矜持、
  破滅的な感情とどこまでも建設的な意志、
  家族の愛情への飢えとたっぷり与えられた母や祖母の愛、
  そして、アンビバレンツな心のありよう。


 ・また、おそらく誰でもそうするであろうと思われるような人生への
  接近。

  稀有な才能による文学の成功よりも前に、人としての
  より普遍的な生き方、難解や韜晦のない平明で骨のある人生。

 ・それらのことにおいて、私は「高見順」に親近感を抱いている。
  どうして「高見順」にたどり着いたかは、先に書いたように
  よく覚えていない。しかし、私の志向、「本」の向こう側に
  見ている系譜ははっきりしている。



 ・一言で言えば、「まじめ」あるいは「誠実」ということである。



 ・私は、何度も頭をぶつけては「本」を読んだ。「本」はエンター
  テイメントであり、たのしみであり、字引みたいな情報源で
  あったり、活字嫌いの私としては、読んでもよく、読まなくても
  いいものである。

  できれば、「本」を読むよりはボーっとしていたい。
  それは、「日記」をつけるときは悩み事があるときであり、
  できれば「日記」に空白の日々が続くように願い、「十年連用日記」を
  つけないですむように、「お守り」がわりに買うようなものだ。


 ・なのに、「本」にしか書いていないことがあった。
  「本」に求めるしかないことがあった。

  何が「ほんとうなのか」、何が「正しいのか」、どうすれば
  いいのか。

  誰がそのことを書いているのか。私と同じように、そこで立ち止まり、
  つまずき、そして誰がどんなことを考えたのか。


 ・映画もマンガも、「本」であった。「世界は一冊の本」であった。



 ・高見順は、1907年生まれ、明治四十年に生を受けた人である。
  私は1945年(昭和20年)生まれ、私の父は1920年
  (大正9年)生まれである。父よりも前の「明治の人」である。

  その順が、中学で読んだのは「白樺派」であり、武者小路実篤、
  有島武郎、志賀直哉や、倉田百三、賀川豊彦であった。

  私も、中学から高校にかけて、「友情」「一房の葡萄」「小僧の神様」
  「出家とその弟子」を読み、賀川豊彦の提唱になる「生協」に
  職を求めた。


 ・私には、高見順のように、「復讐心」や「見返してやる」といった
  強く深い情念はあまりない。それは、私が順と比べて、私がより
  恵まれていた証左でもある。

  しかし、実際においてそうであるか否かは別として、本質的なところで、
  「まじめ」や「誠実」といったことの系譜において、順と私は
  時代や世代といった「時」を越えて、人間的なもののどこかで
  連なっていることを感じ、親近感を覚えるのだ。


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