■1000年前
●きょう、妙法寺駅を出て、椿谷公園横の階段を登っていて
見上げたら、横尾山が目の前に迫り、大きく見えた。
横尾山は、我が家の南に位置する標高312メートルの小高い山で、
朝な夕なに見る私にとっての「おらが山」である。
須磨離宮の後背にある北の三山、栂尾山・横尾山・高尾山の中では
一番高い。
須磨から宝塚に至る「六甲山縦走コース」の、西から7番目の山で
須磨アルプスの景勝「馬の背」がある。
景勝「馬の背」
今週から梅雨に入り、緑が濃くなった横尾山は
雨に煙っていることが多い。
その雨があがって、きょうの横尾山は、
白い山霧が、山裾から山頂へ駆け上るように、
もくもくと立ち昇っていた。
●「散策その後」で書こうとしていたことは、
今は昔、日本に文字(漢字)や仏教が渡来したころから
近世・江戸が始まるまでのころ
人々はどんな思いで暮らしていたのか、「地獄の思想」を手掛かりに
偲んでみようか、と思ったりしたことなど。
・カミとホトケの違い
・外交文書と仏典、漢字の受容
・渡来人、倭と和、文字知らぬ人々
・和歌と声明(しょうみょう)、平曲・謡曲、はやり歌
・柳田國男「自家用の念仏」
・日本の文化と仏教
つまるところ、暮らしの中で、人々は何に心の平安を見出していたのだろうか、
ということ。
●今は昔、
六十を越すと、悠久の昔も
そう遠くは感じられなくなる。
百年とは、今まで自分が生きてきた時間を
今を基点に反転させた百二十年よりも短いのである。
三年先、五年先がわからない
と、人は言う。
しかし、私には生きてきた自分の六十年をもとに
六十年先も大して変わらぬ「自分」というものが
ありそうな気がする。
百歳まで生きようとは思わないが
百歳まで生きた自分を想像することはできる。
そうすると、それをたった3回繰り返すだけで300年である。
百歳で子をなすことができるなら、それは親・子・孫の三代であり
三代同居すれば三百年。
そして、それを3回繰り返すだけで、
もう1000年に近くなる。
千年前は、すぐそこにある。
●最近、火曜日の夜になると
もう一週間が終わったような気になる。
火曜日の夜は、水曜日のことを考えている。
水曜日は中日(なかび)である。
そうすると、あと木曜日と金曜日しかない。
そう思うと、今週ももう半分しか残っておらず
残り半分も今日までの繰り返しで、一週間は終わったような
気になる。
妻は、「そんなことを言って、また遅くまで起きているでしょう」と
叱るが、事実、もう明日は金曜日で
私は土曜・日曜の休みのことを考えている。
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