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2008年06月06日00:40

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●うみうし独語(255)/■1000年前

■1000年前

 ●きょう、妙法寺駅を出て、椿谷公園横の階段を登っていて
  見上げたら、横尾山が目の前に迫り、大きく見えた。

  横尾山は、我が家の南に位置する標高312メートルの小高い山で、
  朝な夕なに見る私にとっての「おらが山」である。

  須磨離宮の後背にある北の三山、栂尾山・横尾山・高尾山の中では
  一番高い。
  須磨から宝塚に至る「六甲山縦走コース」の、西から7番目の山で
  須磨アルプスの景勝「馬の背」がある。
  

  
フォト

                       景勝「馬の背」


  今週から梅雨に入り、緑が濃くなった横尾山は
  雨に煙っていることが多い。

  その雨があがって、きょうの横尾山は、
  白い山霧が、山裾から山頂へ駆け上るように、
  もくもくと立ち昇っていた。



 ●「散策その後」で書こうとしていたことは、
  今は昔、日本に文字(漢字)や仏教が渡来したころから
  近世・江戸が始まるまでのころ
  人々はどんな思いで暮らしていたのか、「地獄の思想」を手掛かりに
  偲んでみようか、と思ったりしたことなど。


  ・カミとホトケの違い
  ・外交文書と仏典、漢字の受容
  ・渡来人、倭と和、文字知らぬ人々
  ・和歌と声明(しょうみょう)、平曲・謡曲、はやり歌
  ・柳田國男「自家用の念仏」
  ・日本の文化と仏教



  つまるところ、暮らしの中で、人々は何に心の平安を見出していたのだろうか、
  ということ。



 ●今は昔、
  六十を越すと、悠久の昔も
  そう遠くは感じられなくなる。

  百年とは、今まで自分が生きてきた時間を
  今を基点に反転させた百二十年よりも短いのである。

  三年先、五年先がわからない
  と、人は言う。

  しかし、私には生きてきた自分の六十年をもとに
  六十年先も大して変わらぬ「自分」というものが
  ありそうな気がする。


  百歳まで生きようとは思わないが
  百歳まで生きた自分を想像することはできる。
  そうすると、それをたった3回繰り返すだけで300年である。
  百歳で子をなすことができるなら、それは親・子・孫の三代であり
  三代同居すれば三百年。


  そして、それを3回繰り返すだけで、
  もう1000年に近くなる。

  千年前は、すぐそこにある。


 ●最近、火曜日の夜になると
  もう一週間が終わったような気になる。

  火曜日の夜は、水曜日のことを考えている。
  水曜日は中日(なかび)である。
  そうすると、あと木曜日と金曜日しかない。
  そう思うと、今週ももう半分しか残っておらず
  残り半分も今日までの繰り返しで、一週間は終わったような
  気になる。


  妻は、「そんなことを言って、また遅くまで起きているでしょう」と
  叱るが、事実、もう明日は金曜日で
  私は土曜・日曜の休みのことを考えている。



  
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