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2008年04月16日23:38

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『マリアの受難』

トム・ティクヴァの『パフューム』は良い映画ではあったけれども、後半のトーンとして、理屈や説明が勝ってしまっているところがあり、大変残念に思ったものだ。(→’07.3.22日記http://mixi.jp/view_diary.pl?id=381049905&owner_id=3341406 )
『パリ・ジュテーム』でオムニバスの1編を担ってはいたが、もう1作ティクヴァの長編を何か観てみたいと思っていたところ、今回レンタルショップで彼の初めての長編映画『マリアの受難』を見つけたので、早速借りて観た。

これは売れる映画ではない、が、観る者の深層心理を異音を以て軋ませる、完成度の非常に高い映画だと思う。

『パフューム』との共通点があちこちに見え隠れする。

例えば、母親に捨てられたグルヌイユ。
母親の死と引き替えに産まれたマリア。
何れも拒絶によって生が始まっている。
人生は、そして人々は、自分を拒否している。
生まれついての不幸。絶対の孤独。
そして、行きつく先の殺人。

映画の印象は全く違うが、モチーフや骨格は瓜ふたつだ。

マリアの生の最初は上の通り。
父親に育てられる事になるマリアだが、この関係は命令と服従の関係。幼いうちからマリアは家で母の代わりに家事をこなす。失敗すれば罰を与える父親は恐怖の対象でしかない。
愛情も優しさもない関係の中で、マリアは己の内に籠り、感情を外に現わす事においていわば”不能”である。学校でも、同じ年頃の友達との交遊もできない。

ある日、マリアは初潮を迎える。
友達から得る知識のない彼女は病気に脅える。
理解しない父親は、家で男達とポーカーに興じ、冷や汗を垂らすマリアを膝に載せて紹介する。
その夜の夢で、何処からか判らぬが、マリアは落ち続ける。回る暗い景色は、しかし、恐怖から親しげなイメージに取って代わる。死は自分を優しく受け入れてくれるベッドだ。

またある日、偶々家に学校の連絡物を持って立ち寄った少年。
憐れむかのようにマリアを見下す少年の戯れのキス。
それを発見した父親は逆上し、少年の髪をひっ掴んで乱暴に引き摺り出すが、脳卒中を起こして倒れ半身不随となり、マリアは以降、下の世話迄し続ける事となる。
夢の中でシャワー(穢れの浄化のメタファ)を浴びるマリア。少年がシャワーの中へ現れキスをするが、気付くと少年はいつの間にか父親に代わっている。
マリアは、日頃ハエやゴキブリを見つけて叩くと、その死骸を種類と大きさとで分類し、箱に収集した。無意識の殺意の潜在化である。

父はマリアに結婚相手を強制する。ポーカー仲間の婿にこの家に住ませ、不随の自分の面倒は変わらずマリアに見させるという条件だ。
これ迄と同じ家で、愛も悦びもない結婚生活が始まる。
決まり切った事の繰り返しとしての不毛な夫婦生活。目覚ましと伴に起き、コーヒーを沸し、無言で新聞を読み、僅かな生活費を渡して出勤していく夫。
象徴としての時計の針の刻み。ドリップするコーヒーの器を真上から映すカメラ。その円形はそのまま時計の姿に変容する。表現主義的な秀抜なイメージ。(ある場面では、落下する涙が、バケツに放り込まれる掃除用モップにすり替わる。)
夫は、次第に父に代わり、支配的で強圧的な存在となっていく。

マリアの生の証しは、2つの代償行為への執着。

1つは、子供時代におばさんから貰った木彫りの人形。可愛らしさもない原始的な土人の直立像。大人になった今でも、精神的な拠り所となっていて離せない。
男性器の象徴である事は精神分析を登場させる迄もない。
とある夜の夢。
人形がマリアの中へ飛び込んでくる。この交わりによって妊娠するマリア。階段の途中での破水。自分の部屋に這いながら戻ると、腹は一気に膨れ上がり、羊膜を被ったものが股から飛び出る。自ら膜を破り、姿を変え、気が付くとそれは子供時代のマリア自身である。
この人形が、後、夫を殺す道具となる。
産みそして殺す、そのパラドックス。つまり”神”である。

もう1つは手紙。しかし、書いてポストに入れる(外に向けて発信する)訳ではない。家具の後ろの隙間に投げ入れる。
架空の”あなた”に、日々の移ろい、葛藤、事件を書いて送る。孤独な自己分裂の営みである。
ある日、家具の裏板を外すと、子供の頃から投げ入れた手紙は滝のように流れ出てマリア自身を覆う。破水、そして精神バランスの糸が切れる隠喩だが、映画ではこの手紙を拾い読みする事で、マリアの半生が反芻されるテクニックとなっている。なかなか巧妙な手口だ。

同じ集合住宅に、窓に佇むマリアを見上げる男がいる。
それ迄マリアにとって、異性とは恐怖と不毛の対象(父と夫)でしかなかったのだが、その男は、初めてマリアに違う世界(性的な悦び、それは一種のコミュニケーションと言えなくないだろう)をもたらす事になる。
マリアにはしかし、愛を育む能力が生育されておらず、この関係は一層マリアの精神を歪ませ危険にしていく。

ついに殺意は溢れ出て顕在化する。
恐怖する異性への対応の究極の変奏としての殺人、その方程式は、これも『パフューム』と同じ根の幻影だ。
閉じ籠もるか殺すか。
もう1つは、狂気。

マリアは、2つの殺人を犯し、窓枠に乗って喜歌劇『天国と地獄』のテーマをゆっくりゆっくり歌いだす。日本ではよく運動会で使われる元気の良いアレグロの曲だ。
マリアによってレントで歌われるこのテーマは、薄暗く、気味悪く、人間性を否定する音楽だ。
そして、終には己をも拒絶してしまう。

製作・監督・脚本・音楽 トム・ティクヴァ
撮影 フランク・グリーベ
美術 シュビレ・ケルバー
出演 ニナ・ペトリ,ペーター・フランケ,ヨーゼフ・ビアビヒラー,カティヤ・シュトゥット
1993年ドイツ映画
 
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