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2006年01月21日01:36

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●寄り道ついで (27)/■「那須善治」

■観音林倶楽部

 ・私の前職は「生活協同組合コープこうべ」である。私がこの組織に
  就職したころは「灘神戸生活協同組合」という名称であった。

  「灘」と「神戸」このふたつの生活協同組合が合併して「灘神戸」
  となったわけだが、その片方の「灘生協」の創設者が「那須善治」
  である。

  *「コープこうべ」(ウィキペディア)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%B9



 ・1921年(大正10年)に「神戸」も「灘」も賀川豊彦の助言を受け
  相前後して誕生しているが、両生協(むかしの呼称では「購買組合」)
  は、その活動エリアと基盤となる組合員の層には大きな隔たりが
  あった。


 ・「神戸」は当時の川崎造船所の職工たちが中心になって組織した
  ものであり、一方「灘」は当時の関西財界の大物「那須善治」
  が、現在の神戸市東灘区JR住吉駅の北、住吉村の「観音林倶楽部」
  の人脈を中心に組織したものだ。

  *「コープこうべのルーツから」
   http://www.gakugei-pub.jp/kobe/nada/nada019.htm


 ・那須善治は、1865年(慶応元年)、愛媛県西宇和郡保内町
  川之石に生まれた。1899年(明治32年)大阪の実業界に進出して
  第1次世界大戦中に相場師として巨万の富を得た。
  その後感ずるところあって実業界を引退し,住吉村に居を移し、
  社会公共のための奉仕を決意して、住吉村にあった「観音林倶楽部」
  の平生釟三郎に相談し、賀川豊彦の勧めもあり「購買組合(生協)」
  を設立することとなる。



 ・ところで、この当時の住吉村は、関西財界人の住む高級住宅地で
  のちに「芦屋」が関西の高級住宅地のように言われるずっと前、
  関西の政財界の大物が住まいしていた。

  住吉村観音林は、明治三十八年頃に開拓され、 阿部元太郎という
  人物が最初に住んだという。彼は地域一帯を買い取り、上水道を
  計画し井戸も掘り、住宅地として開発した。

  大正二年には住友家が居住して、以降は高級住宅地として発展した。

  また、彼は住宅地開発のほか、住民同士の交流や地域のまちづくりを
  考える場所も欲しいと、明治45年に社交クラブ(観音林倶楽部)と
  会館を造った。
  この「観音林倶楽部」からは勅撰議員が五人、大臣が二人出ている。
  大臣のうちの一人が、文部大臣になった先述の「平生釟三郎」
  であり、平生は東京海上火災の専務・川崎造船所社長であり、
  甲南大学や甲南病院の創始者でもある。


 ・「那須善治」は相場で当てて財をなしたのであり、その経緯から見て、
  当時の新興ブルジョアの「成金」から「生協」が誕生した、
  といえばちょっと大げさだが、昔の金持ち、「大尽」たちが何を考え、
  カネをどう使ったかだ。

  その使い道は時代を下るほどに、みみっちく、志も失せていく
  ように思われる。


 ・まぁ、少しのカネでも、カネは儲けるよりも使う方がむつかしい
  ようだ。


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