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2005年12月29日06:03

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●寄り道ついで (9)/■何かをすれば

■「音楽」に

 ・私たちが幼かった頃と、今とでは、いろんなことが
  随分ちがっている。そのひとつが「音楽環境」だと
  思う。

  音楽に関する「感受性」は、人間一般としては、古今東西・
  老若男女を問わず、人と音との交わりの「普遍性」を語ることが
  できよう。

  しかし、「民族音楽」があるように、「環境と音楽」も
  これも、音楽がどのように人と関わるのかを考えると
  大きなテーマだ。

  そして、地域・時代・個人と、その「環境」をより小さな
  焦点にあわせてみると、もう「音楽一般」では語れない。
  その人の好き嫌いを含めての、多様な「音楽」が立ち現れる。

  私は、その意味で、音楽的には「不幸」だった。
  今のように、音楽は普段、村に町にあふれてはいなかった。
  音楽は特殊なものだった。まるで、学校で「音楽の時間」が
  あるように、特別のこととして「音楽」はあった。


■「お富さん」

 ・歌謡曲は身近なものだった。意味もわからず「お富さん」を
  歌っていた。当時、私たちは、童謡よりも歌謡曲を、大人と同じように、
  学校にあがらぬ子供たちも歌っていたと思う。

 ・しかし、それはここでいう「音楽」ではない。
  それは「歌」であり、私が「音楽」と名づけるものではなかった。

  心をなぐさめ、つい口ずさむ歌謡曲も「音楽」ではあるが、
  それは流行歌であり、浪曲や落語と同じ範疇に入るもので
  娯楽であり、決して「音楽」ではなかった。


■ものまね

 ・歌のうまい子がいた。流行歌を上手に歌う。でも、それは
  「音楽」ではなく、「ものまね」の範疇に入ることがらであった。

  少なくとも、私にとって「音楽」というものが出現したのは
  学校で「音楽の時間」があり、「楽器」というものの存在に
  ふれてからだ。

 ・「音楽」は流行歌のように、受動的に口ずさむものでなく、
  もっと積極的に、「自覚的に」「目的意識的に」音楽的なるものを
  作り出す作業だった。
  教室で「歌唱」することは、同じ「歌う」ではあっても
  それは流行歌を歌うこととまったく次元を異にする事柄であって
  教室の「歌唱」は「音楽」の入り口であっても、
  流行歌を歌うことは「音楽」ではなかった。


■「jazz」に

 ・いま、このmixiの「おすすめレビュー」で、ジャズのCDを
  とりあげているが、そのことを書こうとして、話はここまで
  遡ってしまう。

 ・「話が長い」と言われる所以だ。タイトルの「何かをすれば」に
  辿り着くには、さらに話は長くなるだろう。


 ・人は生まれてくるまで、受精から誕生までの間、母親の胎内で
  人類が誕生してから今日までの歴史をもう一度くりかえす
  「系統発生」という現象があるという。

  同じように、私は「jazz」に行き着くまで、私の「音楽」の
  「系統発生」を繰り返しているようだ。


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