■「音楽」に
・私たちが幼かった頃と、今とでは、いろんなことが
随分ちがっている。そのひとつが「音楽環境」だと
思う。
音楽に関する「感受性」は、人間一般としては、古今東西・
老若男女を問わず、人と音との交わりの「普遍性」を語ることが
できよう。
しかし、「民族音楽」があるように、「環境と音楽」も
これも、音楽がどのように人と関わるのかを考えると
大きなテーマだ。
そして、地域・時代・個人と、その「環境」をより小さな
焦点にあわせてみると、もう「音楽一般」では語れない。
その人の好き嫌いを含めての、多様な「音楽」が立ち現れる。
私は、その意味で、音楽的には「不幸」だった。
今のように、音楽は普段、村に町にあふれてはいなかった。
音楽は特殊なものだった。まるで、学校で「音楽の時間」が
あるように、特別のこととして「音楽」はあった。
■「お富さん」
・歌謡曲は身近なものだった。意味もわからず「お富さん」を
歌っていた。当時、私たちは、童謡よりも歌謡曲を、大人と同じように、
学校にあがらぬ子供たちも歌っていたと思う。
・しかし、それはここでいう「音楽」ではない。
それは「歌」であり、私が「音楽」と名づけるものではなかった。
心をなぐさめ、つい口ずさむ歌謡曲も「音楽」ではあるが、
それは流行歌であり、浪曲や落語と同じ範疇に入るもので
娯楽であり、決して「音楽」ではなかった。
■ものまね
・歌のうまい子がいた。流行歌を上手に歌う。でも、それは
「音楽」ではなく、「ものまね」の範疇に入ることがらであった。
少なくとも、私にとって「音楽」というものが出現したのは
学校で「音楽の時間」があり、「楽器」というものの存在に
ふれてからだ。
・「音楽」は流行歌のように、受動的に口ずさむものでなく、
もっと積極的に、「自覚的に」「目的意識的に」音楽的なるものを
作り出す作業だった。
教室で「歌唱」することは、同じ「歌う」ではあっても
それは流行歌を歌うこととまったく次元を異にする事柄であって
教室の「歌唱」は「音楽」の入り口であっても、
流行歌を歌うことは「音楽」ではなかった。
■「jazz」に
・いま、このmixiの「おすすめレビュー」で、ジャズのCDを
とりあげているが、そのことを書こうとして、話はここまで
遡ってしまう。
・「話が長い」と言われる所以だ。タイトルの「何かをすれば」に
辿り着くには、さらに話は長くなるだろう。
・人は生まれてくるまで、受精から誕生までの間、母親の胎内で
人類が誕生してから今日までの歴史をもう一度くりかえす
「系統発生」という現象があるという。
同じように、私は「jazz」に行き着くまで、私の「音楽」の
「系統発生」を繰り返しているようだ。
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