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2005年12月13日10:33

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●そのとき、私は・・・( 6)/■クラブ

■応援団

 ・新入生には、クラブの「勧誘合戦」が待ち受けていた。
  合格通知がきて、まだ神戸に出発する前から「勧誘はがき」が
  きた。大学生協からの勧誘だった。

 ・「寮」の吉田は剣道部を選んだ。高校の頃から引き続きやるという。
  清水と塚本はマンドリン・クラブに入った。この学校のマンドリン
  クラブは全国的に有名だった。全国大会で優勝したこともあった。


 ・「宮地さん」が、わざわざ私の下宿まで来て、「応援団」への
  入部をすすめた。宮地さんは私より1学年上だったが、かつて
  「驍将寮」にいたことがある、というので来たと思う。

 ・その頃、近畿の国公立大学を中心に、新しい「応援団」の設立の
  運動があった。学術・スポーツの振興・応援を行う、いまでいう
  「サポーター」のクラブとしての「応援団」をつくろうという
  機運だった。京大・阪大・大阪市大などが、新しい「応援団」を
  つくった。

 ・宮地さんは、熱弁を奮った。まだどこに入るか決めていなかった
  私は、彼の熱意に負けた。設立してまだ3年目、当時の応援団には
  3回生の設立者の団長「児島さん」を筆頭に、竹内さん、
  竹田さん、鯖田さん、岡本さん(同姓2人)、2回生に
  畑さん、木村さん、奥山さん、それに宮地さんがいた。


 ・勧誘されて部室に行ってみると、トランペットやトロンボーンなどの
  楽器が床に並べられ、長椅子と机、パイプ椅子などがあった汚い
  埃まみれの部屋だった。

  1回生には、私のほか、土利川、古館、寺脇、藤田、奥村、
  仲本、山口、岡田、小林がいた。

  仲本・岡田・小林は応援団の中の「吹奏楽部」担当で、それぞれ
  楽器を担当した。私は「総務部」だった。


 ・ここでの友達が、「寮」と同じように、私の大学生活をいろどる
  「交友関係」の中心になった。


 ・「大学」に、学問を求めてやってくるのは当然であるとしても、
  もし、この「クラブ活動」というものが全くないとしたら、
  大学の機能はあっても、「大学生活」というものは、私の場合、
  ほとんどなくなっていただろう。


  なかには、教室に行くのではなく、部室に行くために
  大学に来ている者もいた。


 ・私は、「応援団」に最後までいなかった。2年か3年に進級するとき
  退団した。理由は、自由な時間を持ちたかったからだ。
  クラブ活動で、これ以上、時間を使いたくなかった。

  勉強もしたかったし、一人にもなりたかった。
  「詩」も読んでみたかった。


 ・そうではあるが、もしこれが、「寮」にも入らず、一人住まいの
  「下宿」で、「クラブ」にも入らず、学校と下宿を往復する日々で
  あったなら、たとえ勉学に励んでいたとしても、私の「大学生活」は
  きっと貧しいものになっていたに違いない。


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