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2005年09月21日23:56

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●順不同 (8)

■「悪いことをしないためには、
  よいことをしなければならない」


 この「順不同」の初回で書き留めたメモのうち、
 ・小人閑居して不善をなす
 について書く。

 「悪いことをしないためには、
  よいことをしなければならない」
 と書いたのは、日高六郎である。氏の「教育論集」の
 中に収められいるのかも知れないが、出典は知らない。

 福地幸造著「部落解放教育の思想」で、私はこの日高の
 発言を知った。同書の「日本のこと・部落のこと」のところで
 福地幸造は、教室の中で教師が<どうやって日本の教育を
 守っていくのか>という文脈で日高の発言を引用している。



■日高六郎の発言

 以下は、同書から日高六郎の発言を引用したものである。

 「<二十坪の教室の中では守れない>という発想で、
  どうやって日本の教育を守るのか」

 「抵抗としての教育という発想だけでは、いわゆる
  教育反動にたいして、教育の最低線さえ『守る』ことが
  できない。創造としての教育があって、はじめて、ほんとうの
  意味で、教育反動と対決できるのではないか」

 「教育のばあいは、この一線だけは守りましょうという発想では、
  その一線さえ、守ることができない」

 「教師はこと教育については、原理としても主催者だし、
  現実としても実権者だということ」

 「教師は毎日教育実践そのものを<実施>している。その意味で
  教師は、二十坪の中では、日々政権の座についている」

 「もし、文部省方式にたいし、街頭あるいは地域だけで反対し、
  二十坪の教室の中では、じつは文部省決定どおり実践している
  とすれば、それはほんとうの意味での<反対>あるいは<抵抗>とは
  なり得ないことは自明だろう」

 「日々実践の場に立たされる教師としては、悪いことをしない、
  というだけでは、どうしてもすまない。悪いことをしないためには、
  よいことをしなければならない。明日の空白の時間を、
  教室はぜひとも埋めなければならない」



■「教育を守ろう」とした時代

 「悪いことをしないためには、
  よいことをしなければならない」
 という発言は、上に書いたような文脈で述べられたものだ。

 「反動教育」などという言葉は、現在「死語」となってしまったが、
 まだ、教師が「教育を守ろう」としていたとき、日高の発言はある。
 この本は1970年3月の発刊で、あとがきは69年11月である。
 「日本のこと・部落のこと」が書かれたのは、おそらくそれ以前の
 ことであろう。


 いまから見ると、古色蒼然とした「民主」「反動」などの
 ことばがある時代背景での発言で、教育の場での発言である。


 しかし、私はこの言葉に強い衝撃を受けた。そして、いまも
 このことばのことを考えている。
 
 私は、これを教育論のこととしてではなく、一般倫理として
 聞いた。


 
■小人閑居して不善をなす

 「悪いことをしないためには、
  よいことをしなければならない」

 もし、「よいことをしなければ」、たとえそれが
 「悪いことではなくとも」、何かで私たちは、その空虚を
 埋める。「悪いことをしない」ことは、空虚を埋めたことには
 ならない。空虚は、必ず、何かで埋める必要があるからだ。

 「守る」ということは、「悪いことをしない」ということではない。
 空虚を占拠されるまえに、「よいこと」で埋めねばならない。

 私は、このことばでそう教えられた。

 「護憲」というのは反動から憲法を守ることではない。
 「憲法」を守るためには、空虚を「憲法」で埋めるしかない。

 「守る」という立場では守れない。守るためには「よいことをする」
 しかない。


■次号(順不同9)を読む
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