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2005年09月09日05:00

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●順不同 (6)

■泣かなくなった、泣けない時代

  私は「過酷な時代」と言った。それは何を指して、そう言うのか。

 もう随分前、25年以上も前の話、私は自分の子供たちのために
 灰谷健次郎の「せんせい けらいになれ」という児童詩の本を買った。
 その中に、「ぼくのこころは しゅんとなった」というような詩が
 あった。手元にないので、うろ覚えで書く。
 
 その子はクラスで、ちょとした何かのヘマをみんなの前でやる。
 すると、クラスの仲間が一斉に馬鹿にしたように笑う。
 先生も一緒になって笑う。その笑いの中に、その子は
 「自分が否定されている」ことを感じる。

 しかし、その子は「みんなといっしょに ぼくもわらった」
 そして「ぼくのこころは しゅんとなった」というような詩であった。

 私が「過酷な時代」を実感し、自覚した最初ではないか。
 また、どちらが先か「ネアカ・ネクラ」というコトバが流行りだした。
 このときも、「過酷な時代」の到来を感じた。

 大学生のコンパでの「イッキ・イッキ」と囃し立て、急性アルコール中毒や
 強制される「一発芸」の流行にも、私たちの学生時代とは異なる
 「孤独な個人」と「過酷さ」を感じた。

 みんな一人ぼっちで寂しそうに見えた。しかし、「泣くこと」は
 許されいないようだった。

 そんな中、「ピートタケシ」が出てきた。私は彼を、今も嫌いであるが、
 TVに出てくる「ブラック・ユーモア」の格好を模した彼の姿に
 そして「当り」を引き当てようとすることに、おぞましさを感じた。
 彼をある程度、理解できる。「過酷な時代」なんだから。
 しかし、私は決して彼を認めない。そうであってはならないと思う。
 そして、それは彼にとっても「幸福」とは思わない。
 だから彼は「みんなに嫌われる」と自分で書く。
 そう書く淋しい「タケシ」を、彼がどんな映画を作ろうが、
 どんな賞をもらおうが、私は認めない。それがナンボのものか。
 淋しい「タケシ」を親は喜ぶか。

 それが私の気になる。


■柳田國男「涕泣史談」「山の人生」

 「涕泣史談」から引用する。

  「言語以外の表現方法は、総括して之を”しぐさ”又は
   挙動と謂って居るが、或は此語では狭きに失して、
   ”泣く”までは含まぬような感じである」
  「今日は言葉というものの力を、一般に過信して居る。
   それというのは書いたものが、余り幅をきかせるから
   と思う」
  「書いたものだけに依って世の中を知ろうとすると結局
   声音や”しぐさ”のどれ位重要であったかを、心づく
   機会などはないのである」
  
 また、「山の人生」から、その一部を引用する。

 「 今では記憶している者は、私のほかには一人もあるまい。
  三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の
  山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで
  鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。

   女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。
  そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、
  山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう
  私も忘れてしまった。なんとしても炭は売れず、何度里に降りても、
  いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で
  戻って来て、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、
  すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。

   眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。
  秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、
  しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に
  仕事に使う大きな斧(おの)を磨いていた。阿爺(おとう)、
  これでわたしたちを殺してくれといったそうである。
  そうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。
  それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落として
  しまった。それで自分は死ぬことができなくなって、やがて
  捕らえられて牢に入れられた。

   この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて
  世の中へ出て来たのである。そしてそれからどうなったか、
  すぐにまた分からなくなってしまった」


  引用は以上である。
 私は何が言いたいか。「山の人生」を読んで、私は泣いた。
 この親爺(おやじ)も、二人の男の子・女の子も、理解できる。
 そして、親も子も泣いている。泣いて殺している。親と子は
 つながってるから泣いている。


  だが、現在ただいま状況はどうなのか。
 それは<悲>さえもできぬ、「泣けない時代」がやってきていること、
 <泣くこと>で救済される何かが、<泣くこと>さへ否定されて、
 救いのない時代の「過酷さ」のことを言っている。



■現代の「親殺し」「子殺し」「夫婦・他人殺し」

  私は、それを現在の「親殺し」「子殺し」そして「夫婦・他人殺し」で
 見ることができると思う。

  しかし、これについては後日に譲ろう。

                      (つづく)



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