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2005年09月07日01:35

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●順不同 (5)

■<青い鳥>のゆくえ

  一昨日来、「青い鳥のゆくえ」について話してきたが、
 五木はこの話を語り終えるために、「慈悲」ということに
 ついて語りだす。

  五木は、前回の話「<青い鳥>のゆくえ――
 絶望の中で希望を育てる――」ことについて、こう語る。


 「この生きがたい世の中をなんとか生きていく、
  そのためには、ひとりひとりが 自分の<青い鳥>を
  自分なりにつくり出し、そのともし火をたよりとし、
  自分をともし火として生きるほかにないのではないか」

 そのとき、ヒントとなるのが、この「慈悲」ということだ。


■「慈悲」ということ

  励ますことを<慈>といい、慰めることを<悲>という。
 ともに、仏教思想を背景にした考え方で、古代仏教のパーリ語では、
 「慈」を「メッター」、「悲」を「カルーナ」という。中国で
 この二つをあわせ「慈悲」という漢字を当てた。

  <慈>というのは、英訳すると<フレンドシップ>と訳され、
 <友愛>という意味をもつ。古代仏教が始まる紀元前5世紀ごろ、
 都市化してきた社会において、地縁血縁によらず、赤の他人とともに
 暮らす中で生まれてきたのが、この<慈>(メッター)という
 倫理である。これは、また、父親の愛情のようなものであり、
 しょげている人のそばに行き、肩をたたいて腕をとり、
 「さぁ、君もいっしょにがんばろう」と励ますようなことを指す。

  これに対し、<悲>(カルーナ)とは、古くからある肉親・家族の
 情愛であり、思わず知らずもれてくるような感情、深いため息の
 ようなもの。たとえば、嘆き苦しむ人のそばにすわって、何も言わず、
 黙って手を握りとも悲しみ、涙を流すようなこと。いわば、
 母親の愛情がこれにあたる。


■<悲>の時代

  <慈>にくらべ<悲>は、前近代的というか、人間生来的というか、
 理性的ではない部分に根ざした古い古い感情である。こんなものが
 現代にどんな価値をもち、意味を有しているのか。

  五木は振り返って言う。現代という時代の「過酷さ」について、
 「さぁ、がんばりましょう。いっしょに、がんばろよ」と声を
 かけることの、なんとむなしいことと思わされる場面に人はしばしば
 直面させられることか。

  たとえば、死を目前にひかえた人に、人はなんと言うて
 慰め、励ますのか。

  同じように、この現代という時代において、あまりに過酷な状況に
 さらされている人々にどう声をかけるのか。若者たちを見よ。
 彼らは絶望すらできないくらいに絶望し、ヘラヘラ笑うしかない、
 そんなような状況――。
 そのように「今日の状況」は、見えてはこないだろうか。

 こんな状況・こんな日常にあって、何が有効なメッセージとなるのか、
 五木はそのことを問い、<青い鳥>の話をし、「悲」のことを
 持ち出している。<悲>はただ黙って泣くだけである。しかし、
 「泣くこと」の大切さを五木は指摘している。

 五木の<青い鳥のゆくえ>は、高校に招かれ、そこでの講演録が
 もとになって編集されているようである。
 講演を終わるにあたって、五木は「いきいきと生きていくためには、
 深く悲しむことも決してマイナスではない」と述べ、
 それを若い高校生への励ましとしている。

  

 私には、五木のこの講演も、また山田太一の「生きるかなしみ」も、
 私たちが置かれている現代という時代の過酷さ、そのことを問い、
 そのことに精一杯答えようとしているようにに思われる。


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