■<青い鳥>のゆくえ
一昨日来、「青い鳥のゆくえ」について話してきたが、
五木はこの話を語り終えるために、「慈悲」ということに
ついて語りだす。
五木は、前回の話「<青い鳥>のゆくえ――
絶望の中で希望を育てる――」ことについて、こう語る。
「この生きがたい世の中をなんとか生きていく、
そのためには、ひとりひとりが 自分の<青い鳥>を
自分なりにつくり出し、そのともし火をたよりとし、
自分をともし火として生きるほかにないのではないか」
そのとき、ヒントとなるのが、この「慈悲」ということだ。
■「慈悲」ということ
励ますことを<慈>といい、慰めることを<悲>という。
ともに、仏教思想を背景にした考え方で、古代仏教のパーリ語では、
「慈」を「メッター」、「悲」を「カルーナ」という。中国で
この二つをあわせ「慈悲」という漢字を当てた。
<慈>というのは、英訳すると<フレンドシップ>と訳され、
<友愛>という意味をもつ。古代仏教が始まる紀元前5世紀ごろ、
都市化してきた社会において、地縁血縁によらず、赤の他人とともに
暮らす中で生まれてきたのが、この<慈>(メッター)という
倫理である。これは、また、父親の愛情のようなものであり、
しょげている人のそばに行き、肩をたたいて腕をとり、
「さぁ、君もいっしょにがんばろう」と励ますようなことを指す。
これに対し、<悲>(カルーナ)とは、古くからある肉親・家族の
情愛であり、思わず知らずもれてくるような感情、深いため息の
ようなもの。たとえば、嘆き苦しむ人のそばにすわって、何も言わず、
黙って手を握りとも悲しみ、涙を流すようなこと。いわば、
母親の愛情がこれにあたる。
■<悲>の時代
<慈>にくらべ<悲>は、前近代的というか、人間生来的というか、
理性的ではない部分に根ざした古い古い感情である。こんなものが
現代にどんな価値をもち、意味を有しているのか。
五木は振り返って言う。現代という時代の「過酷さ」について、
「さぁ、がんばりましょう。いっしょに、がんばろよ」と声を
かけることの、なんとむなしいことと思わされる場面に人はしばしば
直面させられることか。
たとえば、死を目前にひかえた人に、人はなんと言うて
慰め、励ますのか。
同じように、この現代という時代において、あまりに過酷な状況に
さらされている人々にどう声をかけるのか。若者たちを見よ。
彼らは絶望すらできないくらいに絶望し、ヘラヘラ笑うしかない、
そんなような状況――。
そのように「今日の状況」は、見えてはこないだろうか。
こんな状況・こんな日常にあって、何が有効なメッセージとなるのか、
五木はそのことを問い、<青い鳥>の話をし、「悲」のことを
持ち出している。<悲>はただ黙って泣くだけである。しかし、
「泣くこと」の大切さを五木は指摘している。
五木の<青い鳥のゆくえ>は、高校に招かれ、そこでの講演録が
もとになって編集されているようである。
講演を終わるにあたって、五木は「いきいきと生きていくためには、
深く悲しむことも決してマイナスではない」と述べ、
それを若い高校生への励ましとしている。
私には、五木のこの講演も、また山田太一の「生きるかなしみ」も、
私たちが置かれている現代という時代の過酷さ、そのことを問い、
そのことに精一杯答えようとしているようにに思われる。
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