mixiユーザー(id:1362523)

2025年02月13日23:41

63 view

「レコンキスタ」

「レコンキスタ ―「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和―」
黒田祐我:著
中公新書

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/09/102820.html

新聞で発刊を知って即購入。

レコンキスタとは。

イベリア半島は、ローマ帝国が滅びた後ゲルマン人による西ゴート王国が成立しました。しかしイスラム教徒が北アフリカを経由してジブラルタル海峡を渡り、西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島を支配しました。イベリア半島の北部でかろうじて生き延びたキリスト教徒はやがてイスラム教徒に奪われた国を取り戻そうとするようになります。
このキリスト教徒によるイベリア半島奪還が「レコンキスタ」と呼ばれてきました。そしてイスラム教徒を一掃して成立したスペイン王国で、「レコンキスタ」は聖戦のように語り継がれました…。

のですが。

実は「レコンキスタ」という言葉は19世紀、ヨーロッパで国民国家、ナショナリズムが台頭してきた時代にスペインのアイデンティティを強調するために作られた言葉です。キリスト教徒が一致団結してイスラム教徒に奪われた国を取り戻した、という「神話」が生まれたのです。

ということで、近年はこの「レコンキスタ史観」の見直しが進んでいます。
この本はその見直しの最新研究に基づいて書かれています。

まず、イスラム教徒はイスラム帝国を作り、東へ、西へと驚異的な速さで領土を拡大していきました。ウマイヤ朝の時に北アフリカを征服し、さらにイベリア半島に渡りました。ウマイヤ朝はアッバース朝に滅ぼされますが、その時ウマイヤ朝の生き残りアブド・アッラフマーンが都を脱出して、追手をかわしながら北アフリカへ逃げ、イベリア半島に達しました。そうしてイベリア半島を領土として「後ウマイヤ朝」を建て、アッバース朝と対峙することになりました。

そもそもイスラム政権と言いながらも、支配者のアラブ人は少数派でした。イスラム教徒の中にも北アフリカのベルベル人もいました。
また、カトリックの司教座もいくつかは存続しており、西ゴート時代の遺民も多数いました。このキリスト教徒たちは「モサラベ」と呼ばれました。それからユダヤ教徒もいました。さらに、キリスト教徒の中でもイスラムに改宗した人々がいました。
イスラム政権と言っても多宗教・多民族状態だったのです。

一方イベリア半島北部では、コルドバから逃亡して反旗を翻したペラーヨというキリスト教徒がアストゥリアス王国を建てました。その後南方のレオンに都を移し、レオン王国となりました。そうしてカスティーリャ伯領を併合して一つの国となりカスティーリャ王国となっていきます。
また、ピレネー山脈の北部にはナヴァーラ、中部にアラゴン、そして南部のフランスにまたがる地域にはフランスの辺境としてバルセロナ伯領がありました。

やがて後ウマイヤ朝ではカリフの力が弱まり、幼少のカリフが即位すると側近が実権を握ってカリフを傀儡化します。さらにベルベル人軍団がそれに不満を唱え、独自のカリフを擁立しようとします。後ウマイヤ朝はすっかり分裂してしまい、それに対して地方政権が独自政権を建てるようになり、ウマイヤ朝は機能しなくなりました。これが「ターイファ(地方政権)」乱立時代です。

ということで、キリスト教徒の国も複数存在、イスラム政権は地方乱立という時代になっていきます。

つまりこうなると、キリスト教の国同士、イスラムの政権同士が戦う状態になります。そうしたら、敵をやっつけるためにそれぞれ異教徒の軍隊を援軍に来てもらって戦う、という事態が起こるようになりました。さらに国の中でも権力争いが起こりすったもんだ…。

もうかなりややこしい。国がいっぱい、王様も次々交代、どこの国とどこの国が争い、国内でも王位をめぐって争いが起きるし、どこの国とどこの国が手を結んでよその国と戦い、同盟、裏切り、何でもあり。
固有名詞も知らないものだらけで覚えられない。
キリスト教徒とイスラム教徒入り乱れ。宗教の争いではなくて、領土の分捕りあいです。

一応レオン・カスティーリャ連合国が次第に南下していき、ついにイベリア半島の中心部のトレドを陥落させます。これでキリスト教国が優位に…と思ったら、他のキリスト教国と争う。

イスラム側ではモロッコのマラケシュに宮廷を置くベルベル人のムラービト朝が侵入してきます。そしてカスティーリャ・レオン連合国に勝利して乱立政権を統合していきました。
しかしその後カスティーリャ・レオン王国が攻勢に転じてムラービト朝は弱体化し、またもやイスラム政権は分裂状態になっていきます。(第二次ターイファ政権時代)。
そうしたら、今度はやはりベルベル人のムワッヒド朝がムラービト朝を滅ぼして他のイスラム政権を統合して行きます。セビーリャの「ヒラルダの塔」はこの時期に建てられたものだそうな。最初はモスクに付随するミナレットとして、キリスト教徒が征服してからはモスクは聖堂に、ミナレットは鐘楼に転化したもの。聖堂はモスクの面影はありませんが、塔はほぼそのままで、てっぺんに大きな鐘がしつらえられました。

ムワッヒド朝時代はキリスト教国も互いに争っていたこともあり、ことさらキリスト教国に攻め込むことはせずに安定した時代でもあったそうです。学問も発達してイブン・ルシュドが現れ、都市の建設も進みました。

なにしろ連合国のはずのレオンとカスティーリャが再び分裂し、ムワッヒド朝を攻撃する時にレオンの方がムワッヒド朝と手を結んでカスティーリャに対抗しようとしたりします。

しかしカスティーリャはムワッヒド朝に勝利して形勢はキリスト教国に有利になっていくことになります。

そしてムワッヒド朝は弱体化して分裂していきますが、その中でナスル朝が力を持つようになります。ナスル朝はカスティーリャと協定を結び、重要な都市を譲渡し貢納金を払うことで和平が成立しました。
カスティーリャはコルドバ、セビーリャ、とイスラムの都市を次々と征服していきます。アラゴンもまたバレンシアを征服します。
ナスル朝はかろうじてグラナダ周辺を治めるにとどまるようになりましたが、これがかなり息の長い王朝となりました。
キリスト教国も特に急いでナスル朝の息の根を止めようとしなかったようです。

地中海に面したナスル朝では地中海貿易が発達して、ジェノヴァやヴェネツィア商人とも取引していました。また、カスティーリャとは中世ヨーロッパ封建制の家臣に当たる関係を結んでいました。なのでナスル朝は小さいながらも安定した状態が続きました。

この本では中世の戦いの実態も解説してあります。
軍隊と軍隊がぶつかり合う会戦よりも、拠点の都市を攻撃する攻城戦の方が主流だったそうです。都市側は籠城して攻撃側が勝ち目がないと諦めるか、あるいは籠城側が持ちこたえるのは無理、となるか、ある程度情勢が明らかになるとむやみな戦いはしないで協定を結ぶことになります。当時の戦争とはそういうものです。相手を滅ぼし尽くすのではなく、ある程度優劣が判明したらやめるのです。

そして籠城側が降伏した場合、住民は退去させられました。期限を切って、着の身着のまま即出て行け、ということもあれば、余裕を持たせて財産を持って行っていいよ、とか。または条件付きで残留を認められることもありました。

さて、カスティーリャでは15世紀初めごろから「イスラム教徒から領土を奪い返す」ために、ナスル朝に対する攻撃を開始していきます。そうしてカスティーリャでは女王イサベルが即位し、ナスル朝に対する全面攻撃が始まります。イサベルはナスル朝の都市を次々と陥落させ、グラナダに迫りました。この勝利にはこの時期発明された大砲が活躍したそうです。
ナスル朝の君主ボアブディルは追い詰められて、ついにグラナダを明け渡します。
1492年1月2日、イサベルとその夫でアラゴン王のファラン(フェルナンド)、そしてボアブディルによって開城の儀式が行われました。

アスティーリャとアラゴンはイサベルとファランの結婚によって統合されることになり、そしてイスラム王朝をも滅ぼして、ここに一つのスペインと言う国が誕生するのでした。

ただ、イサベルは本来は宗教的な理由すなわち「イスラム教徒を滅ぼす」という意図はそれほどなかったようです。むしろカスティーリャでは王位継承争いがあって、その中で先王が早逝したため、異母妹であるイサベラに王位が回ってきたという事情がありました。国内の貴族の支持を得るために、新たな領土を得て分配する必要があったのではないかということです。

これで「レコンキスタ」の」時代の概要がどうにかこうにか大雑把に知ることができました。細かいことはややこしくてよくわからないことも多かったのですが、大まかには流れはつかめました。

またこの時期の用語も覚えました。

モサラベ…イスラム王朝下のキリスト教徒。アラビア語を話すなどアラブ化したと言われます。しかしモサラベ聖歌がありますので、もとはラテン語で典礼を行っていたものと思われますが、その後アラブ化したらしい。アラビア語文献をラテン語に翻訳する運動に貢献しました。しかしレコンキスタが進むとアラビア語を使わなくなり、他のキリスト教徒と同化していきました。

ムワッラド…「改宗者」。イスラムに征服されて改宗したキリスト教徒。

ムデハル…レコンキスタでキリスト教徒に征服されたイスラム教徒。これは建築様式として「ムデハル様式」というものが残ったため、誤解していました。レコンキスタが完了した後もイスラムの高度な技術はスペイン国内でも受け継がれ、イスラムの技術を使用した建築を「ムデハル様式」というようになりました。なのでてっきりキリスト教化したイスラム教徒のことだと思っていたのですが、キリスト教徒が奪い返した領地に住むイスラム教徒のことでした。レコンキスタが進むと、ムデハルは次第に居場所を失い、本当にキリスト教に改宗するか北アフリカへ逃げたので、ムデハルはいなくなっていきました。しかし建築様式だけ残って「ムデハル様式」と呼ばれるようになったのです。

モスリコ…改宗したムデハル
コンベルソ…改宗したユダヤ人。

あと、ムラービト朝とムワッヒド朝の区別がつくようになりました。

スペインから帰ってきた時、イスラム時代のイベリア半島関連の本をいくつか読みましたが、その中で「アラブとしてのスペイン」という本がありました。これがもう難しくて、知らない用語が次から次へと出て来るし、ターイファ以降のイスラム情勢は実際ややこしすぎるし、どうにも理解来ませんでした。しかし「レコンキスタ」を読んだら、今ならもうちょっとわかるかも…という気がしてきました。ムラービト朝とムワッヒド朝の区別もつくようになったし。

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2025年02月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
232425262728