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2024年04月29日03:47

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イザヤ22:15-25

【イザヤ22:15-25 キリストの表象】
ユダの宮廷の役人の長であったセブナは,高慢,邪悪になり(イザヤ22:15-16参照),そのため主に拒まれていた(17-19節参照)。エリアキムは祭司ヒルキヤの息子で義人であった。主はエリアキムの権勢や権威や地位は後になって授けられるとは言われているものの(イザヤ36:3;37:2参照),この章の最後の数節での使われ方を見ると,エリアキムは明らかに救い主の予型である。ここの表現は,実際にはエリアキムの権威について書いたものであることは確かであるが,同時にイエス•キリストを表す表現でもある。イエスは最終的には,セブナのような高慢の極みに達したイスラエルの支配者たちに代わって立つことになるからである。
「エリアキムという語は『主の復活』あるいは『わが神,立ち上がりたもう』という意味である。」これから見ても,その名前もキリストの予型だったのである。「救いと永遠の命の望みは,エリヤキムすなわちイエス•キリストの死からの復活を通してのみもたらされる。」(アダム・クラーク,『聖書注解』4:107) 族長イスラエルがその息子ユダに祝福を授けたとき,ほかのことに加えて次のように言っている。「つえはユダを離れず,立法者のつえはその足の間を離れることなく,シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」(創世49:10)それゆえ,イスラエルを治める権能はユダが受け継いでおり,ダビデ王国の統治の時代にはそれがきわめてはっきりしていた。ダビデの家の鍵は,国家を支配する権能であり,真正の統治権を象徴していた。これは聖なる神権の権能によってのみ受け継がれるものである。この権能の中心はイエス•キリストにあった。イエスは「開き」「閉じる」権能が授けられていて,この権能をしのぐことができる者はだれもいなかった。ヨハネもイザヤもともに,ダビデの鍵すなわち統治権はいずれ世の救い主の両肩に置かれることをはっきりと示している(イザヤ9:6;黙示3:7参照)。
「堅い所に打ったくぎ」(イザヤ22:23)という表現は明らかに救い主のことを表しているし,また実際の十字架上の苦しみの象徴であるが,「苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けた」(教義と聖約19:18)と言われる主の苦悩全体のごく一部を表しているだけである。堅い所に打ち込まれた十字架上の釘がちょうど受刑者の体をしっかりと支えたと同様に,救い主御自身も,救いを確かにしたいと望む者にとっては,堅い所に打った釘なのである。主は一人として失うことがないように(ヨハネ17:12参照)権能を授けられたからである。キリストが贖われた者を御父のもとに連れて行くと,栄光は主御自身のものとなり,贖われた者たちとその子たちは,キリストの王座のもとで天の家族の一員となるのである(教義と聖約19:2;マタイ28:18;1コリント15:27-28;ピリピ2:5-11;3:21参照)。
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