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2024年03月29日14:10

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西加奈子『夜が明ける』

西加奈子(1977- )の長編小説『夜が明ける』を読む。

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西加奈子の小説を読むのは4冊目だと思うが、これ迄とトーンが随分違う。
彼女の小説は、主人公の境遇がどれ程不幸でも、明るくユーモアに満ちていて、読んでいて幸せな気分になったものだが、本作は徹底的に暗く、救いがない。いや、ラスト近くに救いらしきものがなくはないのだが…

これは、彼女のがん闘病経験が影響しているのかもしれないと思ったが、そうではないようだった。
西加奈子は2019年12月、40歳を過ぎ、夫と子供(当時2歳)と一緒にカナダ・バンクーバーに移住した。3年間と期間を決めたものだったらしい。
ところが、2021年8月、乳がんとの診断を受け、当地で手術を受け治療を続ける事となった。帰国は寛解後の2022年。
『夜が明ける』の初出は「小説新潮」誌2019年9月〜2021年1月の連載。つまり、執筆の大半はカナダだが、がん診断以前である。

主人公は2人の男性、高校時代に同学年で親友同士となった「俺」と「アキ」。生まれはたぶん1980年代前半。
「俺」は語り手でもある。
「アキ」は本名 深沢暁(ふかざわあきら)。191cmという長身だが、吃音で、いつもおどおどしており、体格に反して学校では目立たない存在だった。
映画マニアの「俺」は、彼の風貌が、既に亡くなっていたフィンランド俳優のアキ・マケライネンにそっくりだと気づき、「アキ」と綽名をつけた。
主役をはる俳優ではない、いつも脇にいて、多くをしゃべらない、そのもの悲しげな存在感が「俺」はたまらなく好きだった。
マケライネンが出演している映画『男たちの朝』のビデオを深沢に貸してやると、それを見た彼は喜び、僕はマケライネンになる、とどもりながら主張。普段から映画のマケライネンのような言葉遣いや歩き方等を示すようになり、無精ひげもはやした。

「アキ」の母はシングルマザーで、鬱病を患い、殆ど引き籠り状態。家は貧しく、調子の悪い日の母は、息子をネグレクトした。それでも母を憎めない「アキ」はただ堪えた。
ある日、「俺」が選挙応援カーに轢かれそうになったところを「アキ」が助けてくれた。
政治家の事務所から、隠蔽のための金が「アキ」の家に降って沸いた。

「俺」の方は、ある日父親が交通事故で死ぬ。自殺だったらしく、保険金は下りなかった。父は借金を抱えていて、金目の者は金貸しの業者に持っていかれてしまった。
それでも、母は、「俺」に大学へ行く事を勧めた。父と親交があった弁護士が何かとあと押ししてくれて、「俺」は奨学金で大学に進む事になる。
大学ではバイトに明け暮れた。
卒業後、奨学金返済は、「俺」の生活を圧迫する事になる。

吃音で、人前ではいつもおどおどしてしまう「アキ」には就職口がなく、マケライネンになるとの信念から、俳優を目指して劇団に入った。
主宰者は鍛えれば吃音は治ると言ってくれたが、彼に与えられるのは、いつ迄経っても劇場の掃除や劇団員の世話ばかりだった。

「俺」はジャーナリストを目指したが、就職試験に落ち続け、ようやく引っかかったのは、TVの下請け制作会社だった。
ちょうど就職氷河期に当たり、社員募集は極端に少なかった。のち、彼らの世代は”ロストジェネレーション”と呼ばれる事になる。
下請けの下っ端は、消耗品の扱いで、安い給与の上に無理難題を押し付けられ、毎日寝る時間もないような生活を強いられた。
加えて、奨学金の返済は重荷だった。
それでも「頑張る」「負けない」が「俺」の口癖だった。
マッチョな価値観が覆う当時の社会では、政治家が発した「自己責任」という言葉が流行する。「救い」を求めるのは「甘え」だと非難された。
タレントのミスも「俺」のせいにされ、親会社や上司のディレクターから日々受けるのはいじめか虐待か、ハラスメントか。
いつの日からか、「俺」はリストカットを繰り返すようになる。リストカットをすると、頭がボワーっとして空っぽになる。その時は何も考えなくて済む。
そんな頭の中で、「俺」はいつか「アキ」を主役にしたドキュメンタリーを撮ろうと思っていた。

「アキ」の母親が死んだ。
葬儀は、劇団員が手助けしてくれて済ます事ができた。
彼は自分の生活を一から立て直そうとした。
そうした矢先、主宰の女性に抜擢され、「アキ」はとうとう役を得た。役は虐待者である。
セリフは一切なく、彼の異様な身体性を舞台背景のように使ったもので、この狂気を孕んだ芝居は、主宰者とスター俳優の関係も絡んで、スキャンダルに発展した。
アキは退団を余儀なくされる。

夜の街で途方に暮れていた彼は、物まねを売りにした特殊な水商売の店に拾われる。
著名人に似た男女が働いていて、それを肴に呑みにくる客達。
「アキ」は言葉を発する事なく、ただ店の隅にいるだけで済まされた。
毎日のようにやってくる奇妙な風体の若い女達。彼女らは、男客達と目を交わしては店から出ていく。

「アキ」は、冬のある晩、泥酔し高架下で寝込んでいるところを、若い男達に殴る蹴るの暴行を受けた。「アキ」は身を丸めて、抵抗しなかった。
酒を呑んで雪の中で眠り、40歳で凍死したマケライネンの事が、「アキ」の頭の中をよぎった。

2人は1年以上会わない日々が続いた。

ゴミが山のように積み上がって臭くなった部屋で「俺」はついに倒れる。
会社からは解雇された。
奨学金返済もアパート代も滞り、電気ガス代も止められた。

ある日、「俺」の翌年に会社に入ってきた森という若い女性がアパートを訪ねてきた。
若いくせに、上にも下にも言いたい事を言って、調子のいい奴だと思っていた。
彼女は、会社に送られてきた「俺」宛ての荷物を持ってきた。
それはフィンランドから送られてきた物だった。
開けてみると、送り主はアキ・マケライネンのパートナーだった男性で、中にあった彼の手紙によると、フィンランドでしばらく「アキ」と一緒に寝食を伴にしたが、亡くなったとの事だった。
「俺」は何が起こったのか、理解できなかった。
中には「アキ」の日記のノートが何冊も入っていた。

この小説は、「アキ」についての章と「俺」についての章が代わるがわる置かれていて、その間に、ひらがなで書かれた短文が挟まれるという構造になっているのだが、その短文が「アキ」の日記だった事が、ここに来て分かる。

パートナーと称する男性は、容貌だけでなく、マケライネンと「アキ」の不思議な一致に驚き、感動していた。
彼は自身で日本語に訳したマケライネンの日記の写しも同送してくれていた。
例えば、貧困の中で母から受けた虐待、幼児時代の記憶等、一致点は多岐に亘った。
死を前にした「アキ」は、彼に、自分の日記を「俺」に送るように頼んだのだと言う。
そこには、「アキ」と「俺」が親友同士になった高校時代の出来事も書かれていた。「俺」の「お前はマケライネンだよ!」という言葉がどれ程「アキ」の救いになったか、感謝の思いが拙い言葉で連ねられていた。
また、件の映画について、『男たちの朝』は邦訳のタイトルであり、フィンランドの原題は『夜が明ける』だった、とも。

『夜が明ける』、この小説のタイトルの意味がここで初めて分かる。
「アキ」の本名が「暁」だった事を思いだし、「俺」はこの映画と彼との不思議で強い縁を改めて感じない訳にいかなかった。

これをアパートに持ってきてくれた森は、年齢差も構わず、「俺」に熱っぽく語り始めた。
先輩は、負けず嫌いで頑張り屋で、自分にも他人にも厳し過ぎる。
みんなが嫌がる仕事も率先してやって、文句を言っているのを一度も聞いたことがない。
全部、自分の中で解決しちゃおうとする。
人に助けを求めるのは負けだって思っているでしょう。
もうそれ、やめませんか?
勿論、根性も大切、でも、頑張っても頑張っても、ダメな時はありますよね。
先輩には、自分のために、声を上げて欲しいと思う。
苦しい時に、我慢する必要なんてない。
それは人として当然の権利なんです、誰にもその権利があるんです。
男だから我慢しなきゃとか、泣き言言うのは格好悪いとか、そんな事、金輪際捨てちゃってください。
苦しかったら、助けを求めて下さい。

森の言葉は、マッチョイズムの社会、自己責任を求めようとする社会への反論である。
苦しい時は、甘えてもいい、救いを求めればいい。
社会全体でそれを助ける、そういう社会が大切だ、と。

森は汗をかきながら、ゴミの処理を手伝ってくれて帰っていった。
「俺」は、森が置いていったおにぎりとお茶を食べると、眠くなった。久し振りに悪夢を見ずに寝た。

森という人物は、ここ迄たいした登場場面もなく、どんな人間か読者には前知識があまりない。
そういう意味では、森の、人と社会についての熱い言葉には説得力があり、感動もするが、やや唐突感を持たざるを得ないところがあるのは、残念な気がする。

冒頭の話の続きになるが、西は、エッセイ集『くもをさがす』(2023年4月刊)でこう書いている。
「もちろん、がんは怖い。出来ることなら罹患したくなかった。でも出来てしまったがんを恨むことは、最後までなかった。私の体のなかで、私が作ったがんだ。」
ショックは受けたものの、それも含めて私の身体だと、愛おしく思ったと、言っている。
カナダに行って問題が大きかったのは、言語の壁の厚さだったようだ。
「めちゃくちゃ言語習得の音痴やった」。
言葉が拙いので、スーパーでも役所でも、病院でも、家の水道が壊れても、人の助けなしで生きていけなかった。
これ迄一人で生きていけると思っていたが、「私、おごってた」と。(「朝日新聞DIGITAL」2023.6.11、山内深紗子 記)
ここらに、本小説の底にも流れるものがあるのは間違いない。

1/16に放送されたNHK総合の「クローズアップ現代」で、西加奈子は、2023年11月刊の最新短編集『わたしに会いたい』について、桑子真帆のロングインタビューに答えた。それについて、少しだけ添えておく。
勿論、がん闘病の経験も語られたが、そればかりではない。
男達や他人の(特に女性についての)勝手な規範や評価に対して、「自分の身体、心を社会から取り戻すというのは、共通して書いてきたことやと思う」。
乳がんを経験し、そこから新たな気づき、つまり、「自分の体、人生は自分のものや」、と。


『夜が明ける』
執筆・装画 西加奈子
発行 2021年10月、新潮社
 
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