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2024年02月08日00:47

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「唐詩故事」

「唐詩故事」はかなり古い本で、ヤフオクで落としたもの。一時期ヤフオクで結構中国語の本が見つかるので時々購入していたのです。しかしそのまま積読…。今回気が向いて手に取って見ました。よく見ると「第三集」と書いてあります。中を見たら、第一集は長安や玄宗と楊貴妃のことなど。第二集は曲江や大雁塔・小雁塔、昭陵や茂陵のことなどをテーマに取り上げているようです。第一集が見てみたかったな。

で、第三集ともなると、2冊で取り上げてきたことの残りみたいなものか…。
確かに、日本の唐詩の本で出て来るような詩はほとんど出てきません。知らない詩がたくさん出てきます。

なにしろ最初に出てきたテーマは闘鶏。唐代の長安では闘鶏がはやっていて、闘鶏に関する詩もいろいろ作られた…なんて、今まで見たことない。

それから花。まず喜ばれたのは牡丹。貴人から平民まで牡丹を栽培し、牡丹の名所では花の盛りにたくさんの人が訪れました。白居易とか李商隠などたくさんの詩人が牡丹の詩を作っています。 
そのほか桃の花、蓮の花、菊の花、様々な花が取り上げられています。
黄巣は唐末に「黄巣の乱」を起こした人ですが、その前に科挙を受けて落第し、その頃に菊の詩を作ってたものが伝わっています。満開の菊の花がたくさん咲き、香りが満ちている。まるで黄金の鎧の武人が集まっているようだ…という内容で、いつか乱を起こして唐を倒してやる、という気持ちを込めたと言われています。しかし黄巣は乱を起こして平定されました。実は逃げ出して僧侶になったという伝説もあります。僧侶になった黄巣が詠んだという詩も伝わっています。鎧を僧衣に替え…などという内容ですが、本人のものかどうかは確認できません。

それから「詞」が紹介されています。「詞」とは歌詞のことで、つまり音楽に乗せて歌われたもので、中国では宋代に盛んになりました。しかしすでに唐代にも音楽に乗せて歌われたものが「詞」として広く歌われるようになっていました。
五言や七言の絶句、律詩も中国語で朗誦すれば調子がよく、音曲に乗せて歌われることもありました。しかし詞はもっと自由な形式のものが多いです。

その中でも広く使われた形式がいくつかあります。そのうちの一つが「楊柳枝」です。楊柳を取り上げて自分の気持ちや世相を歌うものです。白居易も「楊柳枝詞」を作っていますが、まず皆がよく歌う楽曲の名前を挙げて、そんな古い詩を歌うのはもうおやめなさい、私が作った新しい詞をお聞きなさい、と呼びかける所から始まって八連からなる詞を作っています。

また柳の枝を折るのは別れの印です。それをテーマにした詩もたくさん作られています。有名なのは王維の「元二の安西に使いするを送る」ですね。
渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた 陽関を出れば故人なからん

宋代になると、「渭城曲」という詞が生まれ、さらに「陽関三畳」と言われて、この詩をもとに拡大した詞が作られ、琵琶や笛の音に乗って歌われ、特にこの詩の最後の句を三回繰り返して歌うことが行われました。

そのほか「竹枝詞」「浪淘沙詞」があります。

さて敦煌では「蔵経洞」と言われる石窟があり、長い間塞がれていたものが1989年になって壁の向こうに小さな空洞があるらしい、掘り起こして見るとたくさんの古文書が出てきた…という事件がありました。一番多いものは経典ですが、その中に唐代の文書もあり、詞が書かれたものも見つかりました。それはのちに「敦煌曲子詞集」という本にまとめられました。これまで見てきた詩人の作った詞はおおむね五言や七言にまとまっていますが、敦煌の詞はもっと字数が自由です。おそらく民間で歌われた詞を書き留めたもののようです。

そして唐代の女性を知ることができるのも詩の中にあります。
当時は後宮にたくさんの女性が入れられましたが、皇帝の寵愛を受けるのはほんのわずか。しかし一度後宮に入ると出ることはかなわず、そのまま年を取って行くしかありませんでした。王建が「旧宮人」という絶句でそんな宮女のことを詠んでいます。白髪に鳳凰の釵を今でも挿しているが、昔覚えた霓裳羽衣の曲も忘れてしまった。

女性の作った詩も残っています。
元載は当時有名な将軍だった王忠嗣の娘、韞秀を妻にします。しかし自身は困窮状態にあって、良家の出身である妻に申し訳ないと思い、長安に出て科挙の勉強をしようとします。そういった気持ちを詠んだ絶句を作ったら、妻がそれに答える詩を作りました。困窮の身であっても志のある人を天は見捨てません。私も共に長安まで行きましょう、と。長安で元戴は妻に支えられて勉学に励み、科挙に合格します。そしてやがて宰相にまで登りつめました。
そうしたら、それまで見向きもしなかった親類縁者がおこぼれにあずかろうと次々とやってきます。
王韞秀はそんな様子を皮肉った詩も作りました。昔自分たちを嘲りばかにした人たちが、恥知らずにも出世したからと言って会いに来る…といった内容です。

あと、多いのは夫を戦地に送って一人残っている女性のことを詠んだ詩。李白の有名な「子夜呉歌」もそうです。
また、裴悦の妻は自分でそういった状況のちょっと長い詩を作りました。寒い夜に遠くに遠征した夫のことを思いながら冬の衣服を縫う気持ちを細やかに詠んでいます。さらに夫が敵に捕らえられたという消息を知って「哭夫」という連作の詩を作りました。

白居易の「琵琶行」も有名な詩です。潯陽江に行った時、船で知人を見送るために酒を酌み交わしたが、音曲の一つもない。そこへ琵琶の音が聞こえてくる。琵琶の音のする方へ船を近づけ、弾いている人を探したら、顔を半分隠しながらようやく出てきた。曲を所望すると都ではやっていた曲を弾くので身の上を聞けば、昔は都で琵琶を弾き、多くの人にもてはやされたという。しかし家は凋落し、こんなところまで流れてきたと…。

唐代の住宅事情も詩の中に見られます。
玄宗の開元・天宝時代は唐代でも特に栄えた時代で、長安の都では権勢を誇った人たちの豪邸が立ち並ぶ状態でした。しかし安史の乱で都が荒廃すると、そういった豪邸も打ち捨てられ荒廃していきました。
しかしその後も皇帝に用いられた将軍などが豪邸を作ります。白居易は朱塗りの門が大道に沿って並び、豪華な庭園のある屋敷の様子を描写しています。そして世の中には貧しい人がたくさんいるのにその人たちを救うこともないのかと嘆きます。しかしこの豪邸もその子供の代になって皇帝に没収されたという。

また白居易は農民の貧しい暮らしを描写した詩も残しています。冬の寒さを防ぐこともできない貧しい住まい、貧しい身なり。風は突き刺す剣のよう。

このころから「風水」の考え方があり、家の位置にもこだわりがあったそう。不幸が続くとこの家は縁起が悪いなどと考えたそうな。

また徳宗に二人の公主がありましたが、白居易が「音曲に乗って鳳凰を呼び仙女となって五色の瑞雲にまで飛翔していった」(つまり亡くなった)ので、住んでいたお屋敷をお寺に変えた、という内容の詩を作っています。

また汾陽王郭子儀が亡くなった後、そのお屋敷が法雄寺となりました。張籍が絶句を作っています。

汾陽の旧宅は寺と為り
猶有り 当時の歌舞の楼
四十年来車馬絶え
深巷の古槐に暮蝉愁う

色々な面で唐代の雰囲気に浸ることができました。
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