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2024年01月28日21:19

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週プロ流智美あの日あの時予想2023年総括(20)

第289戦、5月17日発売号●【予想】アリ戦決定の猪木が発電所不在のMSGでファンに挨拶(76年ニューヨークMSG)【正解】猪木が“春の本場所”を制し、馬場と並ぶ2大エース時代スタート、第11回ワールド・リーグ戦優勝決定戦、猪木vsクリス・マルコフ(69年5月16日日本プロレス東京体育館)

【参考】2017年5月17日発売号は新団体WWWFが誕生し、“人間発電所伝説”スタート!、WWWF世界ヘビー級選手権試合、バディ・ロジャースvsブルーノ・サンマルチノ(63年ニューヨークMSG)

【予想解説】「20世紀最大のスーパーファイト」と呼ばれたモハメド・アリvs猪木の「格闘技世界一決定戦」(76年6月26日、日本武道館)。前75年3月、オハイオ州クリーブランドでチャック・ウェップナーを破りプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王座を防衛したアリは「次は東洋人とやる、誰か俺と闘う勇気ある東洋人はいないのか、空手家でも柔道家でもいい」とアピール。

これに噛みついたのが猪木であり、同年6月9日、マレーシアのクアラルンプールでジョー・バグナーとの防衛戦を行う(タイトル戦は7月1日)為、羽田空港にトランジットで立寄ったアリに新日本プロレスの杉田豊久渉外担当が猪木の代理人として挑戦状を渡しました。

この時アリは「イノキ、フー?(誰だ?)」と取り合いませんでしたが、猪木は諦めず水面下でアリ側と交渉を続けていました。

76年2月24日付の「ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー」紙がアリvs猪木、6月に東京で実現と報じました。この報道を受けて2月28日付(27日発行)の「東京スポーツ」1面ではアリが「猪木と戦争だ!」と猪木戦を応諾したことを認めました。

2月27日は新日本プロレスは「ビッグ・ファイト・シリーズ」後楽園ホールからのテレビ生中継、番組の冒頭で猪木が舟橋慶一アナウンサーのインタビューに答え、アリとの対戦が決まったと発表しています。決戦の舞台は6月26日、日本武道館に決定。

「ビッグ・ファイト・シリーズ」終了後の3月25日。ニューヨークのプラザホテルで調印式が行われ、紋付袴姿の猪木は初めてアリと相対します。

カーキ色のシャツを着用したアリは猪木に「お前のその長い顎はペリカンみたいだな、今日からお前をペリカン野郎と呼ぶことにする。おい、ペリカン野郎、お前の顎は俺のパンチ1発で砕いて再起不能にしてやる」と得意のアピール。

紋付羽織袴というスタイルで調印式に臨んだ猪木は終始、微笑を絶やさず、「私は口では闘わない」と泰然自若とした態度でアリの挑発を柳に風と受け流して臨み、「東洋的神秘」の恐怖感をアリに植え付けました。

猪木は「風林火山」などの言葉を用いてニューヨークタイムズをはじめとする海外マスコミに「静かなる禅の達人」などと評されました。後に猪木は、この時について「アリは相手を挑発して自身を鼓舞しているが、内心は怖いんだろう」と逆に冷静になれた、と語っています。

アリのファイトマネーはアリ側の主張する1,000万ドル、猪木側の提示する600万ドルで攻防が展開されていました。

アリは世界超一流のエンターティナー。猪木を毒づく憎い表情を見せたかと思えば、同伴していた倍賞美津子夫人(当時)には格好を崩して色目使いをします。

「お前のワイフは美しいな。よしお前のワイフの美しさに免じて600万ドルから10万ドルだけ上乗せした額で受けてやる。その代わり俺が勝ったら、お前のワイフを貰うぞ!」という「落としどころ」を見せました。

結局、アリのギャランティは計610万ドル(当時のレートで約18億3,000万円。試合前に180万ドル、試合後に120万ドル、クローズドサーキット(有料衛星放送、今で言うライブビューイング)上映の収入から310万ドル)。猪木のギャランティは350万ドル(同10億5,000万円)という、超弩級スケールで決着します。

猪木は4月2日、川崎市体育館で開幕の「第3回ワールド・リーグ戦」に参戦の為帰国しましたがアリ戦前に負傷などを回避する為かリーグ戦はシードされ、第1、2回優勝者の功績を評価されてリーグ戦1位選手と優勝決定戦で対戦することに。

しかし5月7日、高松市民文化センターで星野勘太郎と組んでビクター・リベラ&ラウル・マタ組と対戦していた時、キラー・カール・クラップが角材のような凶器を持って乱入、猪木に襲い掛かり左肩を攻撃。このダメージで猪木は優勝決定戦を棄権しましたが、これはアリ戦を控えていたことによるアングルではないかと思われます。

5月11日、東京体育館で行なわれた優勝決定戦はリーグ戦1位のペドロ・モラレスが2位でクラップ、リベラとの巴戦を勝ち上った坂口征二と対戦、坂口がリングアウト勝ちで初優勝を果たしています。

「第3回ワールド・リーグ戦」は5月13日、大阪府立体育会館で閉幕、猪木はシリーズオフに再び渡米し、アリの莫大なファイトマネーを賄う為の「クローズドサーキット」(衛星生中継による有料の全世界同時生放送、今でいうライブビューイング)のPRの為、5月17日、ニューヨークMSGのリングに登場し観客に挨拶。

新日本プロレスと親密関係にあり、アリvs猪木戦のプロレス側のコーディネーターをやっていたWWWF代表のビンス・マクマホン・シニアは、東京でのアリvs猪木戦のクローズドサーキット放映権を購入、現地時間の6月25日夜、ニューヨークのセンチュリー・シェアスタジアムでビッグマッチを開催することが決まり、全試合終了後、会場に設置された特大スクリーンでアリvs猪木戦を生中継で流すことになっていました。

3月の訪米の際、ニューヨークのファンから「トニー」と呼ばれ、一躍知名度が上がった猪木は観客の声援に応えています。

この日のMSGは4月26日に起きたブルーノ・サンマルチノがスタン・ハンセンに首の骨を折られた事故による負傷で欠場中、一躍トップヒールとなったハンセンはイワン・プトスキーと対戦、13分50秒にリングアウト勝ちし返り討ちにしていますが観客は18,000人発表と満員にはなっていません。

猪木とハンセンが初めて同じリングに立った記念すべき日でもありました。

【正解解説】こちらの正解は2012年5月16日発売号で1度採り上げられている既出ネタです。69年の「第11回ワールド・リーグ戦」は坂口征二の凱旋帰国で大きく盛り上がり、日本プロレスは黄金時代を迎えていました。

リーグ戦は日本陣営vs外国人陣営の対抗形式の総当りリーグ戦、日本側は第8〜10回優勝の馬場、初優勝を狙う猪木、初出場の坂口、大木金太郎、吉村道明、星野勘太郎、山本小鉄、大熊元司。外国人側はボボ・ブラジル、ゴリラ・モンスーン、クリス・マルコフ、メディコ2号、メディコ3号、ペッパー・ゴメス、ボビー・ダンカン、トム・アンドリュースの各8人ずつ全16人が参加。

日本側は馬場と猪木がともに6.5点、外国人側はブラジルと伏兵マルコフがともに同じく6.5点。同点4選手がくじ引きを行い、5月16日、東京体育館での優勝決定戦は決勝トーナメント第1試合が馬場vsブラジル、第2試合が猪木vsマルコフとなりました。

このくじ引きは観客の目の前で行なわれたのではなく、既に5月14日、横浜文化体育館大会終了時点で4人の得点は確定しており、もう既に日本プロレスのフロントにより前日には決められていたようです。

第1試合の馬場vsブラジルが30分時間切れに終わり、自動的に第2試合の猪木vsマルコフ戦の勝者が優勝ということに。もし猪木とマルコフが引き分けになっていたら改めて決勝トーナメントやり直しとなるところでしたが…。

マルコフのラフ攻撃に苦戦の猪木、鉄柱に叩きつけられ、凶器攻撃で額から流血もニーリフトの連発から卍固め、17分45秒、猪木がギブアップ勝ちを奪い、ついに念願の初優勝、7月から始まるNETの「ワールドプロレスリング」のエースとなることが決まっている猪木にとっては大きな勲章となりました。

日本プロレスは、馬場の単独エース時代から馬場、猪木2大エース時代がスタートすることになった歴史の転換点のリーグ戦だったと言えます。

※対戦成績は289戦51勝238敗、勝率176。
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