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2023年05月31日00:00

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イザヤ40:3

【イザヤ40:3 荒れ野に呼ばわる者の声】
この聖句はバプテスマのヨハネのことを指しているが,『旧約聖書』のほかの多くの預言同様,さらに別の意味をも含んでいる。救い主は「荒野の声」とはバプテスマのヨハネのことであると明言された(マタイ3:3;ヨハネ1:23;1ニーファイ10:8-9参照)。しかしこの先駆けをなす者の役割が,エルサレムに向かって試練の時は終わったと告げる者のために道を備えることであるなら(イザヤ40:1参照),イザヤが,バプテスマのヨハネの現世における働きだけについて言ったのでないことは明白である。ジョージ・ティーズデイル長老は次のように言っている。「キリストは,エルサレムに対して慰めの言葉をかけるどころか,次のようにお嘆きになった。『ああ,エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,おまえたちにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど,めんどりが翼の下にそのひなを集めるように,わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに,おまえたちは応じようとしなかった。見よ,おまえたちの家は見捨てられてしまう。』この慰めの言葉はエルサレムに対して言われたものであろうか。わたしにはそうは思えない。バプテスマのヨハネが主の最初の降臨の先駆けであっただけでなく,再臨に際してもその先駆けとなることは,きわめて明らかなことである。この点に関する聖典の言葉は明瞭である。」(『説教集』25:16)
主の2度目の降臨で初めて,エルサレムは赦しと平安とを得る。したがって,砂漠に大路をまっすぐにせよと叫ぶ荒れ野の声についての記述は,バプテスマのヨハネがイエスの時代にも,また末日においても先駆ける者として働くことについて語っているのである。ルカはイザヤ40章の3節だけでなく,4節と5節も引用している(ルカ3:4-6)が,これは明らかに福千年のことを指している聖句である。ジョセフ・スミスはルカによる福音書を改訂した際に新しく5つの節を加えたが,これも主の再臨について触れたものであり,先駆けをなす者が現れ,救い主のために道を備えると断言している。
預言者ジョセフの新しく加えた5つの節は,ルカの引用したイザヤ書の中ほどにある。したがってこの節はもともとイザヤ書の原本の一部であったとも考えられる。
バプテスマのヨハネがこの預言を2度にわたって成就したことは明らかである。しかし,この預言はまだほかにも成就する余地があったのである。
キリストの再臨のために道を備える先駆けの役を果たした人物がもう一人いる。それはジョセフ・スミスである。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように言っている。「マラキは〔イザヤと同様に〕主が御自分の前に道を備える御使いを遣わされることについて話している。これは確かにバプテスマのヨハネが来ることも指しているが,この聖句は聖典の中で二重の成就を含んだ預言の一つである。この預言は預言者ジョセフ・スミスの出現をも指している。なぜなら主の前に来て道を備える御使いは,今日に来なければならなかったからである。このことは重要なことであるので少し時間を割いて採り上げよう。この使者がいつメッセージを伝えようとしたかを示そう。....
主は御自分の再臨に先立って,道を備えまっすぐにするために一人の使者を遣わさなければならない,と一人の預言者を通して宣言された。これはヨハネのことであると言うかもしれない。それは正しい。かつての神権時代において,主の前に来て道を備えたヨハネはこの神権時代にも使者としてジョセフ・スミスのもとに来たからである。したがって,主の前に道を備えるために来たヨハネを指していると言ってもよい。
しかしわたしはさらに一歩進めて,主が御自分の前に道を備えさせるために遣わされた使者は,ジョセフ・スミスであったと確信している。彼は遣わされ,聖なる御使いの指示を受けて,神の王国とこの奇しき御業の基盤を置き,世が主の来臨に備えられるようにした。」(『救いの教義』1:185-186)
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