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2022年03月19日00:00

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イザヤ1:16-20

【悔い改めよとの呼びかけ,赦しの約束】
イスラエルの家を痛烈に批判しているさなかにあっても,主は,心から悔い改めるならばイスラエルは国家として救いにあずかることができると言われた。この聖句は,悔い改めて赦しを求める人々を励ますためにしばしば引用されるが,もともとは一つの国家を対象に与えられた言葉であって,一個人を対象にしたものではない。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように言っている。
「これは一個人に与えられた約束ではなく,反逆している国家に与えられたものである。主がイスラエルやユダにどれほどの数の預言者を遣わそうとも,また主がどれほどの回数悔い改めを説こうとも,歴史全体を通じてイスラエルとユダは反抗的であった。
ここに書かれている約束は,主のもとに帰るならば,過去の罪は赦され,主は再び御自分の民として受け入れてくださり,豊かに祝福を下さる。そして,引き続き主の聖約の民として存在していくことができるというものである。」(『福音の質疑応答』2:180)
しかしながらニーファイは,イザヤの言葉を引用して,「すべての聖文を自分たちに当てはめて,それが自分たちの利益となり,知識となるように」した(1ニーファイ19:23)。この美しい約束は,もともとは一国家としてのイスラエルに与えられたものであるが,個人に「当てはめる」こともできるのは当然である。チャールズ・W・ペンローズ長老は,主がイスラエルに与えられた約束を,特定の条件を満たすべき人に当てはめて次のように言っている。「踏み行うべき道は示されている。すなわち,信じて悔い改める者は皆,水の中へ連れて行かれ,その古い生活を葬ってもらわなければならない。古い自分をその行いとともに捨て去り,キリストの埋葬に倣って葬られ,キリストの復活に倣って再び起き上がらなければならない。こうして水から上がったときには,もし信じて悔い改め,バプテスマを施すために神から遣わされた人によってバプテスマを施されたならば,そのときには,『たといあなたがたの罪は緋のようであっても,雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても,羊の毛のようになるのだ。』清められ,新しく生まれ,水から生まれた人たちは,神聖な聖餐を頂く度に,神に誓いを立てる。それは,引き続き神の道に従い,神の道を歩み,キリストの名を受け,あらゆることにキリストを忘れずその戒めを守るという約束である。こうして適切な方法で清められ,汚れを除かれ,白くされ,ちょうどこの世に送られてきたばかりの子供のように,染みや汚れのない状態になったとき,そのときに初めて,肉体は聖餐を受けるにふさわしいものとなるのである。」(『説教集』22:91より)
ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,16節にある洗いという言葉はバプテスマのことを指している可能性があると言っている(『福音の質疑応答』1:51参照)。
『モルモン書』からは,これ以外にイザヤは少なくとも1回はバプテスマについて教えたことが分かっている(1ニーファイ20:1参照)。
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