【心のこもらない礼拝の偽善性】
この聖句の中で,主はモーセの律法,特に律法の実践と儀式を否定されたわけではない。ここで責められているのは,モーセの律法に従ったささげ物や祭式を偽善的に行っているという点である。イスラエルはこうした宗教活動を偽って行い,ただ外形的な要求を満たしていただけで,救い主に礼拝の心を向けるという真心からの目的をもって礼拝していなかったのである(ジョセフ・スミス,『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.58-59;ヤング『イザヤ書』1:61-62参照)。イスラエルの民を指してソドムとゴモラと呼んでいるが(10節),これはイスラエルの民の罪と腐敗がいかに深刻であったかを如実に示している。
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