mixiユーザー(id:19325581)

2022年03月05日00:00

26 view

旧約聖書後半 特講(K-3)

【ユダヤのギリシャ化】
紀元前4世紀の終わりごろ,一つの新勢力が歴史の表舞台に躍り出る機をうかがっていた。ペルシャ帝国の絶え間ない圧力が触媒となり,ギリシャの数ある都市国家はマケドニヤのフィリップ王を長として手を組んだ。彼の指揮下,ギリシャ半島の全勢力は間もなく結束し,ペルシャの覇権に挑戦する支度を整えた。やがてフィリップの息子アレキサンダーの下で征服の戦いが始まった。彼は紀元前334年にペルシャ帝国を降伏させた。アレキサンダーはそこから直ちに中東全体に侵攻し,パレスチナを含む諸国を傘下に収めた。商人,職人,労働者などのギリシャ人の移住集団が引き続いてやって来て,ギリシャ文化をもたらした(『聖書時代の日常生活』 p.291参照)。数年後にアレキサンダーは死んだが,ヘレニズムつまりギリシャの影響は何世紀も残った。ユダヤの小国がアレキサンダーに征服されると,ユダヤ人世界は西方に向きを変え,ヨーロッパ文明の影響下に入った。過去には北東や南に連行され,散乱したが,今後は北および西に広がるのである。昔は同じ近東出身の主人であったのが,これからは西方出身者の支配を受けるのである。
ギリシャ人は,世界の諸問題は自分たちの文化ですべて解決がつくと信じていた。世の青少年にギリシャ古来の思考を植え付けることが,まず当面の目標であった。彼らはそのために,旧習にとらわれずに学習できる町を建設した。さらに,ギリシャ人の退役軍人が帝国中に土地を与えられた。こうしてギリシャ人はヘレニズム思想の浸透を図ったのである(T・エドガー・ライアン「ギリシャ・ローマ文化が聖地に及ぼした影響」『エンサイン』1974年9月号,p.20参照)。結果としてギリシャ語が新しい国語となり,ヘレニズム文化が標準となった。こうしてかつてなく大規模な異教の影響と難問がユダヤ人を見舞った。ギリシャ人はユダヤ人の風俗,習慣,宗教を原始的,前時代的,野蛮と見て,彼らの「啓蒙」に努めた。周囲の民はすぐにギリシャ支配を受け入れ,やがてユダヤ人はギリシャ風文化の大海の中の孤島となった。以前はユダヤ人だけが一致団結を誇っていたが,新たに行政面でこうした圧迫を受けると,スリヤーギリシャグループが台頭してきた。強力な統一戦線にユダヤ国民が対抗していけるものかどうか,政治的に包含されて主体性を失ったように,文化も宗教も征服されてしまうのではないかという懸念が生じてきた(『ユダヤ人の歴史』H・H・ベンサスーン編pp.196-197参照)。
その危険は事実であった。刺激的なギリシャ哲学や唯物思想の影響が,じきにユダヤ人社会の上流層に蔓延した。大祭司の職に君臨して,神殿礼拝やより政治的な長老たちの評議会を牛耳っていた有名なザドク家でさえ,その圧力に負け,トーラーの単純な真理の一部を捨てて異教の複雑な哲学を採用したのである。放棄と言わないまでも,妥協は日常茶飯事であった。ギリシャ化した大勢のユダヤ人エリートが,非常に儲けの多いギリシャの取税人の仲間入りをした。異教徒の流儀に公然と譲歩する人々を見て,より敬虐な多くの人たちはその日和見主義者を罪人と等しい者と見なした。そうした感覚はキリストの時代まで続いたのである。
このころ,非常に皮肉な現象が生じていた。捕囚の時代以降,サマリヤではユダヤの血が異教徒によって大いに薄まっていた。それでも住民は,ネヘミヤの時代まではエルサレムを自分たちの霊的なよりどころとしていた。ところが,帰還したユダヤ人に神殿再建への参加を拒否され,サマリヤ人はそれに対抗してゲリジム山に自分たちの神殿の基礎を据えた(エズラ4-5;ネヘミヤ13:27-31;ヨハネ4:20参照)。こうしてゲリジム山はサマリヤ人,モリヤ山はユダヤ人の神殿の地となった。サマリヤはギリシャの圧力に押されて速やかにその様式を取り入れ,ヘレニズム思想の中心地となった。
エルサレムのユダヤ人もかなり譲歩はしたが,サマリヤ人のギリシャ化はいかにも先祖の風習をかなぐり捨てたかのように見え,それが驚きを呼び,やがては嫌悪に発展した。この敵意が,エルサレムとサマリヤが手を結ぶ可能性を永遠に破壊したのである。キリストの時代には両者の間の憎悪が激しくなっており,ユダヤ人の中にはガリラヤからユダヤへ旅をするときに,いわゆる悪い影響にさらされ汚れに染まる危険を冒さないで済むように,サマリヤを避けてわざわざ回り道をする人々がいた。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する