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2021年09月16日01:53

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イザヤ55:1-2

【(18-2)「みな水にきたれ。......買い求めて食べよ」】
水に来て食べよというこの聖句は,『モルモン書』でヤコブが贖いに関する説教の中で繰り返し使っており,あらゆる人は来て贖いの祝福を受けよというヤコブの訴えの土台となっている。『モルモン書』にはさらに重要な言葉が付け加えられている。イザヤ55:1と2ニーファイ9:50-51を入念に比較する。この聖句の意味は明らかである。イエスは「生ける水」であり「命のパン」である(ヨハネ4:13;6:47-51参照)。その恵みに満ちた賜物は人に自由にかつ無料で与えられる。しかしながら,キリストのもとに来て値なしでこれらの賜物を受けよという招きは,努力せずに手に入るということではなく,ただそれらを手に入れるためにこの世のものは必要ないということである。 マリオン・G・ロムニー長老は,どのような代価が求められているかについて次のように説明している。「地上での生活が終わり,ほんとうの意味で目が開けてありのままが見えるようになると,そのときには主や預言者たちが繰り返し教えてきたことがもっとはっきりと分かり,理解できるようになる。また福音の実こそ生涯をかけて追求する価値のある唯一の目標であることが分かる。福音の実を所有する人は,まことの富,すなわち主の目から見て価値のある富を持つ人である。....わたしは,確かに福音がもたらす祝福には測り知れないほどの価値があり,それを受けるための代価はかなり厳しいものに違いないと考えている。主がこれまでにこの件について言われたことを誤って解釈していないかぎり,そう考えて間違いないと思う。しかし,その代価を支払う能力がないというような人はだれもいない。それは,お金やこの世の品物によってではなく,義にかなった生活により支払うものだからである。求められているのは,全身全霊を傾けて福音に献身することであり,また末日聖徒イエス・キリスト教会に対して無条件に忠誠を尽くすことである。
行動を起こしたとしても,中途半端な気持ちで行ったのでは十分とはいえない。わたしたちはそのような祝福にあずかることができず,ちょうど幼いときから戒めを守っていたにもかかわらず,悲しみながら立ち去って行ったあの金持ちの青年のようになることであろう。『ほかに何が足りないのでしょう』という青年の問いかけに対して,イエスはこう答えられた。
「もしあなたが完全になりたいと思うなら,帰ってあなたの持ち物を売り払い,貧しい人々に施しなさい。......そして,わたしに従ってきなさい。」(マタイ19:21)明らかにこの青年はあらゆる戒めに従って生活することはできた。ただ,福祉の道に従えなかったのである。
守らないでもかまわないというような戒めはあるはずがない。わたしたちは喜んであらゆるものを犠牲にささげなければならない。自分を訓練し献身することによって,わたしたちはいかなる状況にあっても喜んで主に仕える気持ちのあることを主に示すのである。これをすべて行ったとき,わたしたちは来世で永遠の命にあずかれるという確信を受けることができる。そうして初めてわたしたちはこの世で平安を感じることができるのである。」(『大会報告』1949年10月,pp.39,43-44)
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