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2021年05月30日08:13

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風林火山伝 第45話 信長の反撃

伊勢長島に陣取る織田信長のもとに足利義昭からの返書が元亀4年(1573年)3月3日に届いた。信長は義昭からの返書の内容に『伊賀、伊勢の領地を安堵するとともに、美濃、尾張の領地の安堵については信玄に相談しても良い。また、越後の塩の斡旋もわし自ら、謙信に頼んでも良い。』と以外な回答に驚きをしめしたが、『義昭に直接会い、詫びを入れること。』ということには難色をしめし、高飛車な態度をとる義昭にひどく腹を立てた。信長の頭には織田家の面目を保つためには、武田との決戦あるのみと覚悟を決めた。

信長はまずは軍を二手に分け、別働隊の羽柴軍を美濃 海津に陣取る武田信繁、武田勝頼軍と応戦し、信長本隊は一気に京へ兵を進め、義昭を討ち取るために伊賀の織田信雄、大和の筒井順慶、松永久秀にも援護を頼む考えであった。信長は武田信玄が浅井長政の居城に小谷城向かってる情報はすでにつかんでおり、お市にひそかに忍びを送り、長政の居城に小谷城にいる武田信玄を暗殺することも考えていたのであった。

まずは羽柴秀吉率いる別働隊約5千の兵が3月4日早朝 伊勢長島城を出陣した。早朝の木曽川に沿って北上を始めた。羽柴軍は多度まで軍勢を進め、そこに陣どったのであった。
早朝の天気は深い霧であり、多度からは海津の武田軍の様子は分からなかった。当然ながら海津に陣取る武田信繁、武田勝頼も多度まで羽柴秀吉が進軍していることを察知することはできなかった。

そして、信長は滝川一益3千の兵を伊勢長島一向宗の抑えとして残し、義昭討伐のため伊賀経由で京へ約1万の兵にて伊勢長島城から出陣したのであった。

一方、信玄は義昭の小谷城への出陣をいまだ待っており、長政の居城 小谷城に待機していた。そして、お市のもとに信長の間者よりひそかに贈り物が届けられたのであった。それは小さな門松であり、なんと竹は4本あったのである。

                                     つづく


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