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日記一覧

明智光秀は坂本城に入城した武田信玄、浅井長政、朝倉義景を出迎えた。信玄は「出迎え大儀である。今の京の都の様子はどうじゃ?公方様を見事、松永の手ものより助け出してくれて感謝しておる。その松永久秀はいまや織田信長を裏切り、我が武田の味方になった

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・冒頭に徳川家康登場。渋沢栄一の物語を幕を閉じるにあたり、今後は皆さんに栄一の夢を追い続けてほしいと頼む。・1919年第一世界大戦が終わり、パリ講和条約が結ばれる。・原敬首相は渋沢栄一にワシントン軍縮会議のことを話す。栄一は米国の日本人排斥問題

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その兵は織田信長に大火傷を負わせた松永久秀の軍であった。松永軍は織田本陣にめがけて突進してきた。「あれは久秀の軍が! おのれ、裏切り者! わしにかなりの大火傷追わせよって許さん!」と信長が言った。「信長め、まだ生きておったか。それにしてもそ

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・渋沢栄一は伊藤博文に対して、尊王攘夷に力を入れすぎている間違えを正さなければと話す。博文は日本を守ろうという心が強かったと答える。・明治42年(1909年)、渋沢栄一一行は、アメリカで日本が排斥されていることに対して、アメリカ人説得のため、約3

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使いは信玄に「わが主君 久秀は宇治平等院にて、信長のすきをつき、信長に大けがを負わせ、信長を裏切り、京を目指しております。京にて御屋形様の軍に合流し、ぜひともお味方したいとのことでございます。」「それで信長のけがの様子はどうじゃ。信長は久秀

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・尾高順忠、渋沢喜作は、渋沢栄一の勧めがあり、徳川慶喜と対面する。慶喜は順忠の富岡製糸場の功績をたたえる。その後、順忠はこの世を去る。・徳川家康登場、徳川慶喜が30年ぶりに東京に戻ったこと。日本が日清戦争に勝利し、欧州列国と渡り合う立場になっ

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信長のそばにいた織田信雄、筒井順慶らは異変におどろき、慌てて、信長に向けて水をかけたのであった。爆発して燃えた平蜘蛛の窯は鎮火したが、信長はかなり火傷を負っていたが、なんとか命はとりとめたのであった。しかし、信長の顔も火傷傷をおっており、信

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・久しぶりに徳川家康登場。徳川の世が終わり20数年。江戸が再評価されるときがきたと説明。・明治22年夏 上野にて東京開始300年祭が徳川旧幕臣により開催される。渋沢栄一、渋沢喜作もこの祭を盛り上げる。栄一は久し振りに徳川昭武と再会する。・渋沢栄一

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3月6日夜、武田信玄は星ヶ崎城に陣取っているとき、明智光秀の使者より、将軍 足利義昭が松永久秀の手のものにより無事 本能寺から解放され、今は光秀に護衛されている旨の知らせを受けた。そして、信玄は織田信長との決戦の前に、都入りし、義昭に挨拶も

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・渋沢栄一は亡き千代の香典をもらったお礼を徳川慶喜に言うために静岡に行く。栄一は久し振りに慶喜に再会する。慶喜は昭武を心配していたと栄一に伝える。・渋沢栄一は共同運輸会社を設立し、三菱の船会社と決戦を挑む。三菱が値引きしたら、、共同もそれ以

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明智光秀は本能寺の建物の中を歩きまわった。光秀にとって本能寺の建物の中に入るのは初めてであった。本能寺の建屋は比較的新しく、ある壁に本能寺の再建の建屋目録があった。その目録には、本能寺は天文5年(1536年)天文法華の乱により焼失し、天文14年(1

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・渋沢栄一は東京風帆船会社を発足させるが、岩崎弥太郎に妨害され、世間で悪評がたち、うまく立ち行かなくなる。・渋沢栄一の娘 うたが、穂積陳重とお見合いし、お見合いはうまく進む。・渋沢栄一の経営する東京養育院は物価上昇で経営難になるが、栄一はな

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本能寺を包囲した明智光秀は、足利義昭が幽閉されている本能寺に向かい「我が明智軍 本能寺を包囲したり。無駄な抵抗はやめよ!公方様を解放しなければ、わが軍勢は本能寺に突撃するであろう!」と大声で叫んだ。本能寺を守る数人の松永久秀の兵は光秀の脅し

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・米国より元大統領グラント将軍の来日に備え、井上馨の妻 武子らが千代、よしらにもてなしの方法を教える。また渋沢栄一はグラント将軍への挨拶の練習をする。・7月にグラント将軍が来日する。そして渋沢栄一はグラント将軍に挨拶する。その夜、グラント将

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明智光秀は護衛隊を二条御所に待機させ、数人の家臣引き連れて、急ぎ、本能寺へ足利義昭に会うために向かった。そして、光秀は本能寺にたどりつくと本能寺の門は閉ざされ、門の前では2人の兵が守っていた。そして光秀は身なりからして松永久秀の兵だと分かっ

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・1878年(明治11年)大隈重信は財政を立て直すために不換紙幣を市場にばらまく。それに対して渋沢栄一は強く抗議する。・岩崎弥太郎は前島密と会い、渋沢栄一のことを話題にする。弥太郎は栄一に興味を示す。・徳川家康が久しぶりに登場。今回の話題は徳川幕

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そのころ松永久秀は織田信長の軍に加わり、京の都を目指し、木津付近まで進んでいた。そして、京からの使者は久秀のもとに届き、本能寺にて足利義昭を人質にして監禁中であると報告した。久秀は、武田信玄から織田信長からの寝返りの誘いを受け、頃合いをみて

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・大蔵省の大隈重信は政府が貸し付けている小野組の貸付金に対して担保を差し出すよう命じる。そして、渋沢栄一は大隈重信に直談判するが、これは一人で決めたことだと聞く耳をもたなかった。結局、栄一は小野組の頭取 小野善右衛門から政府より先に担保を差

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足利義昭と家臣 細川忠興は本能寺に到着し、商人 茶屋三郎左衛門は建屋に案内した。しかし、そこには本能寺の住職 日承上人の姿はなかった。そして、本能寺の建屋の戸は閉ざれ、密閉状態になった。三郎左衛門は「私は商人にあらず、実は私は松永久秀の家臣

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・渋沢栄一は三年半務めた大蔵省を辞職することを決意する。その旨を杉浦譲に伝える。 井上馨は大隈重信に大蔵省をやめることを宣言する。そして、続いて栄一も大蔵省に辞表を出す。・その後、財政改革に対する抗議の文書を井上馨、渋沢栄一連盟にて新聞に記

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3月6日、武田、浅井、朝倉連合軍は佐和山城を出発した。また、先発隊の土屋昌続ら率いる約8千の兵は夜を徹して軍勢を進め瀬田川の瀬田唐橋を渡り、織田信長の京入りを食い止めるため伏見へ、明智光秀率いる約5千の兵は琵琶湖を船を使い、坂本城から将軍 足利

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・渋沢栄一は大坂で出会ったくにより手紙が来る。栄一がくにの間に子供ができたとの知らせであった。そして数日後、くにが栄一の家に来る。栄一は妻の千代に浮気し、子供をつくってしまったことを謝る。千代は栄一の前ではともにその子も育てましょうと栄一の

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大和郡山城での軍議が終わったあと、羽柴秀吉に合流するよう命じた簗田政綱が大和郡山城に早馬にて急ぎ戻ってきた。そして、正綱は織田信長に秀吉は3月5日朝出陣するとき突然 高熱で倒れ、伊勢長島で危篤状態であり、急遽、秀吉の代役として弟の羽柴秀長5千

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・岩倉具視は薩摩に行き、西郷隆盛に東京の新政府に加わるよう頼む。そして西郷は、新政府に加わる。・徳川家康登場。新政府はまだまとまっておらず、まだ全国に藩が残っている状態である。徳川家康は徳川幕府を倒して作りたい世とは何か問いかける。・渋沢栄

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元亀4年(1573年)3月5日 夕刻 織田信長率いる織田軍約2万の軍勢は筒井順慶守る大和郡山城に入城した。その後、しばらくして松永久秀率いる約5千の軍勢が大和郡山城に到着した。その後、信長は大和郡山城にて、順慶、久秀を集め、軍議を開いた。「

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・徳川家康登場。明治新政府が危ういところを旧徳川家臣の渋沢栄一が助け舟をだすことを説明する。・渋沢栄一は大隈重信支持のもと、改正掛を設置し、栄一は改正掛の長となる。そして、静岡藩から前島密、杉浦譲ら助っ人呼び寄せる。そして、改正掛会議が始ま

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おねは目を覚まさぬ秀吉を見て、秀吉の病がかなり深刻であることを改めて実感した。おねは薬師に「こたびの夫の病は巫女に化けた狐は猛毒を持っており、夫の右手に噛みついたことにより、夫の体内にきつねの猛毒がまわったことが原因だと話されましたね。もと

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・1869年 明治2年 夏 版籍奉還が行われ、駿河藩は静岡藩となる。・静岡藩で謹慎をしていた徳川慶喜は謹慎がとかれる。・大久保一翁は渋沢篤太夫に新政府から出仕の要請があったことを打診する。 篤太夫は新政府の出仕にはきわめて後ろ向きな考えで、実際

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武田信玄は石田佐吉を再び信玄の馬に乗せ、早馬にて武田本隊に合流した。そして信玄は佐吉をしばし、信玄のそば近くにおき、進軍をした。一方、武田信廉率いる別働隊約1万、酉の刻(午後6時前)に信玄の武田本隊到着を待って、番場(米原)にて約1週間ぶり

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・冒頭で徳川家康登場。明治維新後の徳川家、駿府の状況を解説する。・明治元年、駿府にて、渋沢篤太夫は大久保一翁より勘定方組頭に命じられるが、徳川慶喜から徳川昭武への返書を持ち帰る役目があるので、応じられないと断る。これは慶喜から願いであるとの

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