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日記一覧

・1869年 明治2年 夏 版籍奉還が行われ、駿河藩は静岡藩となる。・静岡藩で謹慎をしていた徳川慶喜は謹慎がとかれる。・大久保一翁は渋沢篤太夫に新政府から出仕の要請があったことを打診する。 篤太夫は新政府の出仕にはきわめて後ろ向きな考えで、実際

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武田信玄は石田佐吉を再び信玄の馬に乗せ、早馬にて武田本隊に合流した。そして信玄は佐吉をしばし、信玄のそば近くにおき、進軍をした。一方、武田信廉率いる別働隊約1万、酉の刻(午後6時前)に信玄の武田本隊到着を待って、番場(米原)にて約1週間ぶり

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・冒頭で徳川家康登場。明治維新後の徳川家、駿府の状況を解説する。・明治元年、駿府にて、渋沢篤太夫は大久保一翁より勘定方組頭に命じられるが、徳川慶喜から徳川昭武への返書を持ち帰る役目があるので、応じられないと断る。これは慶喜から願いであるとの

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武田信玄は童に「お主は頼もしい目をしておるのう。お主の名なんと申す?どこの生まれじゃ?」童は「石田佐吉と申します。私の生まれは今浜の近くの石田村で生まれました。しかしわが母は、2年前の元亀元年(1570年)6月の三田村合戦(姉川の戦い)で織

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・渋沢篤太夫は約6年ぶりに血洗島のふるさとに戻る。その様子を徳川家康が紹介する。・渋沢篤太夫は血洗島野村に入る入口で尾高長七郎が出迎える。生きるものにはなすべきことがあると長七郎は昔、篤太夫に言われたことを言い返す。・そして渋沢篤太夫は渋沢

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小谷城を出発した武田、浅井、朝倉連合軍約4万の兵は、朝倉義景の軍約1万を先頭に、浅井長政の軍約1万、しばらく遅れて、最後に武田信玄の軍約2万が続いた。先頭の朝倉軍が番場(米原)に達したのは申の刻頃(午後4時頃)で、ちょうどその頃、武田の別働隊 

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朝倉義景率いる約1万の軍は3月5日 予定通り昼過ぎ、小谷城に到着した。その後、義景は武田信玄、浅井長政と対面したのであった。義景は「信玄公にお目にかかり、誠に光栄でございます。三方ヶ原の合戦後の折り、軍を一乗谷に引き返してしまい、信玄公のご期

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