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日記一覧

起点から約一里進んだ出町柳付近では、依然、帰蝶の乗る揚羽馬が先頭であり、信玄の乗る黒雲の一町(約100メートル)ほど前を走っていた。しかし、信玄の乗る黒雲は体制を立て直し、徐々に信玄は帰蝶との差を縮めていった。そして信玄が帰蝶との差を五間(

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・二条城にて家康が大坂城に出陣する前、阿茶局は信康の婚礼の時の鯉の話を聞かせてほしいと頼む。・大坂夏の陣が始まる。大坂城では真田幸村が家康の本陣をどのようにして攻めるか作戦を練っていた。そして家康は天王寺口に本陣をおく。・真田幸村は作戦通り

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帰蝶は短剣を持って信玄に襲いかかろうとしたが、信玄は風林火山の軍配で帰蝶が手していた短剣を神殿内の入口付近にはじき飛ばした。「帰蝶よ!わしは女相手と戦いをするのは好かぬ。どうじゃ!わしと競べ馬で勝負し、わしが勝ったら信長殿がおさめられている

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・徳川軍の大砲により天守の天井が崩れ落ちれ、それにより茶々は意識不明になるが、しばらくして意識を取り戻す。・しばらくして、徳川と豊臣の和睦交渉が始まり、大坂城の堀を豊臣の手で埋め、浪人たちを大坂城から排除することで和睦はまとまる。豊臣側は常

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石田佐吉、松永久秀、日承上人が護国神社にたどりついたとき、甲高い声で「人間五十年、下天の内を比らぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を享け、滅めつせぬもののあるべきか。」と信長が好んだ敦盛の舞の祈りの声が護国神社の本殿から聞こえてきたのであった

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・大坂城にて19歳に成長した豊臣秀頼は立派に舞いをまう。茶々は秀頼が成長したあかつきには家康は天下を返上することを約束し、もし家康が約束を破れは戦をしてでも家康から天下を奪い返すと千姫に話す。・家康は駿府に隠居する。本多正純は徳川の天下を世に

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・関が原の合戦後、徳川家康は大坂城で豊臣秀頼、茶々に対面。家康は秀頼が成長するまでは家康自らが秀頼に代わり政を行い、秀頼が成人に成長したおりに政を秀頼に譲ることを約束する。茶々は太閤の遺言である秀頼と千姫の婚儀を急ぐよう家康に指示する。・慶

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石田佐吉は夢を見ていたであった。そして、夢の中で信玄が言ったことは、しっかり記憶に残っていた。しばらくすると在昌が佐吉の部屋に来て言った。「佐吉様、おはようございます。昨晩はよく眠れましたでしょうか?」「おはようございます。在昌様、よく眠れ

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・慶長5年(1600年)9月14日 大坂城では茶々が豊臣秀頼を出陣させたいと総大将の毛利輝元に伝えるが、輝元は今はその時ではないと秀頼の出陣を止める。そんな中、北政所の使いで家康の側室 阿茶局が茶々と対面し、秀頼を出陣させるのは得策ではないと茶々に

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「ジャバリ、バカ、コレハ、ポルトガルゴノアルドウブツノハツオンニヨクニテイマスネ!」とフロイスが言った。「フロイス様、これはポルトガル語の当て字なのですか? 全く想像もつきませんでした。  ところでどういう動物の意味なのでしょうか?」と佐吉

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・慶長3年(1598年)豊臣秀吉この世を去り、5大老、5奉行が一同集まり、今後の政について話しあう。石田三成は5奉行が天下の政を行い、5大老がそれを支えることを提案する。徳川家康他5大老は三成の提案に異論はなかった。会がお開きとなったあと、毛利輝元は

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「あなたが賀茂在昌様でございますか!奇遇でございますね。在昌様には是非とも一度お目にかかりとうございました。なぜ在昌様がこの南蛮寺におられるのですか?実は拙者どもは信長の遺骨の場所の手掛りをつかむためにフロイス様のところを訪れました。さらに

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・石田三成は争いの世をなくすために合議による政の仕組みを徳川家康に話す。家康はその考えを秀吉に話すよう勧める。・酒井忠次は世を去る前に家康に天下を取るよう強く願う。・1596年 明国皇帝より和睦に対する返事が来る。小西行長が再び、秀吉に朝鮮出兵

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・天正12年 1592年 豊臣秀吉は唐入りのため朝鮮に出兵。本拠地を名護屋城におく。 日本軍は朝鮮上陸後、約1か月で朝鮮の首都 漢城を陥落させる。・浅野長政は豊臣秀吉に唐入りを堂々と反対する。秀吉は激怒するが、家康が長政をかばう。・服部半蔵は徳川

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なんと信玄より手渡された油紙にあぶりだされた文字は「馬鹿」と書かれていた。「いかがした?日承上人。油紙をあぶりだして何か手がかりがつかめたのか?どれ、わしに見せてくれるか。」と信玄は興味深く尋ねた。日承上人はしばらく躊躇したが、「御屋形様、

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・1589年5月 豊臣秀吉と茶々の間に鶴松生まれる。・豊臣秀吉は北条攻めを決心し、徳川家康に北条をつぶしたら、その領土を家康に与えると宣言する。その代わり、徳川旧領は豊臣に返すよう命じられる。家康は北条領は北条に従来通り安堵され、家康は従来通り

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・京の聚楽亭では豊臣秀吉が北条の上洛を促すが、なかなか上洛しないので攻め滅ぼすことを考えていた。・家康の側室 於愛は民への施しをしていた。そんな中、長丸(のちの秀忠)の姿もあった。一方 鳥居元忠がかつての甲斐の忍び 千代と暮らしていることが

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石田佐吉は河原に落ちていた斎藤家の家紋の入った油紙を手にとりじっと見つめていた。そして松永久秀が「佐吉よ!何をその油紙をじっと見つめている。信長の遺骨の行方となんか関係があるのか?」と佐吉に向かって吠えついた。「久秀様、斎藤家の家紋と言えば

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・徳川家康は豊臣秀吉の臣下になるために上洛を決意する。そしてそのための人質して秀吉の母が岡崎城へ。なかは旭と再会する。そして仲は井伊直政を気に入る。・徳川家康は大坂に到着し、豊臣秀長低を訪れ、秀長に挨拶する。そんななか秀吉が忍びで登場。ねね

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上杉謙信は家臣に対し言った。「毘沙門天よりお告げがあった。急ぎ、信濃に攻め入る。出陣の準備をするのだ。」すると家老の直江信綱は「御館様、此度の戦の義は何でござるか?毘沙門天様より信濃を攻める義について何かお告げはありましたか?」と謙信に問う

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・天正13年(1585年)、天正地震が起こり、豊臣の領地 機内では甚大な被害を受ける。・その後、織田信雄は徳川家康に豊臣秀吉の臣下となるよう上洛を進める。しかし、家康並びに家臣は秀吉は信用できないと上洛を断る。そして、信雄は豊臣から人質を出

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・小牧長久手の戦いの後、羽柴秀吉は織田信雄を調略し、信雄より徳川家康に羽柴秀吉と和睦するよう指示する。家康は仮の和睦という位置づけで渋々認める。・その後、石川数正が和睦の使者として大坂城の羽柴秀吉と対面。秀吉は数正に家康より秀吉に人質を差し

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武田信玄は書状を開けた。その書状はなんと織田信長の正室 帰蝶からであった。その書状には「信長の霊は越後に向かっています。おそらく信長は謙信に乗り移り、信玄様の本拠地、甲斐、信濃を攻めるでございましょう。急ぎ、信長の遺骨を見つけ出し、信長の霊

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・徳川勢は小牧城にて堀を掘り守りを固める。家康側は秀吉を挑発するため、秀吉の悪口を書いた書状を秀吉に送る。しかし、秀吉には何の効果もなかった。・池田恒興、森長可はこのすきに三河岡崎城を攻める中入りにより徳川勢を動かす策を秀吉に提案するが、秀

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・徳川家康は石川数正を名代として羽柴秀吉に柴田勝家に勝った祝いを言う。 家康は数正に秀吉がどんな人物か探らせるとともに、祝いを言うことで秀吉を油断させる 狙いがあった。・羽柴秀吉は信長の次男、織田信雄を見限る。信雄を手放しにして徳川家康のも

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石田佐吉は北の洞窟、雨が空から降っている絵が描かれている布の方向を指さしながら言った。「久秀様、日承上人様、出口はこちらでございます。」「佐吉よ!お主は雨の絵の出口を選ぶ根拠は何にぞよ!」と久秀は吠えながら言った。「久秀様、この書状は信長の

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・1582年6月清州城にて清州会議が行われれ、羽柴秀吉の提案である織田信忠の子、三法師が織田家の跡継ぎになることが決まる。・お市は羽柴秀吉の勝手にはさせないため柴田勝家の妻となり、羽柴秀吉に対抗する。・一方、徳川家康は、旧武田領の地盤固めを

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・6月3日 徳川家康は東に向かうが山中で敵に遭遇するが、服部半蔵らが助けにくる。そして服部半蔵は伊賀越えを提案する。その夜は近江の小川城に家康、半蔵は泊まる。しかし、城主は伊賀越えは危険なので信楽経由で行くことを勧める。しかし、半蔵はそれは罠

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石田佐吉、松永久秀、日承証人は、織田信長の遺骨の手がかりをつかむべく、大きな穴の底の下に隠された空洞の部屋に降りたのであった。そして、日承証人は隠し部屋の全貌を掴むべく松明を照らしたのであった。すると、その隠し部屋のそれぞれの四方にさらに洞

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・天正10年(1582年)6月2日、本能寺は焼ける。茶屋四郎次郎が家康やりおったと叫ぶ。家康は山中を逃げる。これは実際には明智光秀が織田信長を討ち取ったが、茶屋四郎次郎が状況を勘違いしただけであった。・3日前にさかのぼり、5月29日、明智光

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