「お経で読む仏教」
釈徹宗:著 NHK出版
本屋さんに行くときは気を付けなくてはいけません。うっかり目に留まった本に手を伸ばし、そのまま購入へ…となってしまいます。よそ見をしないようにひたすら目標物のみを見て脱出するときもありますが、油断しているとこういう本を買うことに。
仏教は中央アジア〜中国の歴史あるいは仏像を通して理解してきましたが、経典については般若心経しか知りません。なので、このタイトルに興味を惹かれてしまったのです。
著者は浄土宗本願寺派のお坊さん。相愛大学の副学長で、人文学部教授でもあります。
取り上げられているお経は
スッタニパータ
涅槃経
ミリンダ王の問い
維摩経
阿弥陀経
ブッダは経典を残さなかったので、初期の仏教は全て口伝です。しかしブッダ入滅後、教えの解釈をめぐって部派分裂が起こります。やがてそれぞれの部派がそれぞれの解釈に基づいて教えを文字に残していきました。
スッタニパータはごく初期に書かれた南部部派のパーリ語の経典の一部です。ブッダが説いた言葉に近い内容がうかがえます。仏教の根本的な考えである「縁起」すなわち原因と結果の関係を見て、苦悩の結果ではなく原因を知ることによって解決することをめざします。そして真理や教えを固定化してはいけない、自分の考えだけが正しいと思ってはいけないと説きます。
涅槃経はブッダの最期の様子を物語のように書いたものです。八正道や七覚支など仏教の修業が書かれてもいます。病を得て苦しむ様子まで書かれています。ブッダが死に向き合って自分の修業が完成したことを告げて入滅に至ります。
経典というには微妙なのが「ミリンダ王の問い」です。
ブッダの説いた教えではなく、西北インドにいたギリシア人の王、メナンドロス(ミリンダ)が僧侶ナーガセーナに議論を挑みます。かなりハイレベルな議論が戦わされ、実体があるとかないとか、無明、縁起など仏教の思想が明らかになります。
「維摩経」は大乗仏教の経典です。もとはサンスクリットの経典だったらしい。
維摩はブッダの十大弟子に茶々を入れては論破していました。ある時病気になりますが、弟子たちはブッダにお見舞いに行くように言われますが、誰も行きたがりません。そこでブッダは文殊菩薩にお見舞いに行くよう頼みました。
ということで、知恵の神様・文殊菩薩と維摩の問答が始まるのです。
大乗仏教の思想に「慈悲」と「智慧」があります。仏教はもともと悟りを開いてこの世の「苦」から抜け出すことが根本的な教えですが、大乗仏教になると、自分一人で悟りを開くのではなく、人々の苦しみを自分のものとして考える「慈悲」が重要になってきます。
ここで著者は、仏教はもともとブッダが説いたようにただ悟りを開くことのみを目的としたのなら、ここまで広く信者を得ることはなかったと書きます。出家の道を歩まなくても、社会生活を送りながら、何物にもとらわれずに生きる姿勢が説かれるようになって、幅広い信者を獲得し、教えが広がったと言います。
私は、仏教は悟りを開くことを目標にするのが根本なので、その後の仏教は原初の仏教から大きく変わってきた、本当のブッダの教えではない、と否定的に見る傾向がありました。しかし修業に励み、悟りに到達するのは容易ではありません。修業した一部の人だけが救われるのではなく、広くたくさんの人の心に届くような教えに変貌したからこそ仏教は世界宗教になりえた、ということなら、その変貌は否定するものではないということに思い至りました。
「阿弥陀経」はその通り、阿弥陀如来のいる極楽浄土が描写されています。
阿弥陀如来が教えを説きますが、その重要な部分は「今現在説法」です。まさに今、あなたのために説かれている仏法」ということです。誰かのための遠い教えではなく、読む人が「自分のためだ」と思って受け取れる教えです。
さらに、阿弥陀仏を心に念じて日々を過ごせば臨終の折には阿弥陀仏が迎えに来てくれることが説かれます。阿弥陀仏による来迎思想です。
ここまでくると、仏教は初期仏教から見たら、ずいぶん遠くまで来たなあ、という感じになります。だからこそたくさんの人に支持され、広がってきた、というのが著者の主張です。
特に日本には仏教の各系統が多く残っています。この本をきっかけにもっとお経に興味を持ち、仏教と縁をつないでほしい、というのが著者の願いです。
確かに、もっとお経のことを詳しく知りたくなってきました。多分、日本では探せばいろいろなお経が日本語訳で読めるんでしょうね。
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