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2020年10月27日01:55

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三都三園の展覧会

小林美術館で「三都三園」展が行われているというので行ってみました。
小林美術館ってどこにあるのかと思ったら、浜寺公園の近くではありませんか。

三都三園とは。
近代の女流美人画家、京都の上村松園、大阪の島成園、東京の池田焦園を指します。
上村松園はよく知っています。
島成園も展覧会に行ったことがあって、だいたいの画業は知っています。
池田焦園は見たことがありません。

なのでこの三人が揃う展覧会とはどんなものかと思いました。

小林美術館は小ぢんまりとした美術館です。2016年開館。
文化勲章を受章した画家を中心に集めているそうです。
それほど大物はありませんでした。それでも上村松園は館蔵品があります。
天人の図やお福の図などちょっと珍しいものがありました。
二人の女性を描いた「傘美人」は上村松園らしさが見られる絵です。

池田焦園は東京生まれ。日本画家、水野年方の画塾に入門。上村松園に憧れる彼女に、師匠は焦園の画号を与えます。
ところが。
焦園は師の立ち合いで同門の画家、池田輝方と婚約します。しかし、輝方は他の女性と出奔してしまうのです。しばらくは絵筆も取れないほど憔悴していましたが、やがて再び絵筆をとり画業に専念するようになります。
そうして様々な賞を取るなどして認められるようになった焦園のもとへ、8年の月日を経て輝方が戻ってきます。そうして、もう一度焦園に求婚します。
結局二人は結婚しました。
しかも、二人で共に画業に励み、おしどり画家とまで言われるようになりました。
しかし、焦園は結核を病み、31歳の若さで亡くなってしまいました。

展覧会では輝方との合作が二作あります。同じ画布に描いたものと(二人の絵の違いが判らない)、「春秋美人図」という二幅セットのうち春の絵を焦園が、秋の絵を輝方が描いたものがあります。
上村松園と並ぶほどではないと思うものの、もし長生きして研鑽を積んだらどれほどになっただろうかと思います。

島成園は全く題材の異なる絵。若い娘の恥じらうような姿を描いた「美人」、シャボン玉を飛ばす子供、箒を持った女性の「箒持ち」で日常生活の一瞬。そして「見返り美人」。

島成園は堺生まれ、後に大阪市内に転居。父と兄が襖や団扇の絵を描く仕事をしていたため見よう見まねで絵を描き始めました。やがて文展に入選するほどの力をつけ、注文が来るようになりました。島成園は単に美人画だけではなく、当時の大阪の街中の情景を描いたり、子供の姿を描いたり、風俗画に近いものも描きました。
しかし、成園は親の決めた人と有無を言わさず結婚させられます。相手は銀行員で、転勤が多くたくさんの土地を転々とします。この時期に作品を描くことがすっかり少なくなってしまいました。夫に従うしかなかった当時の女性。家事の負担もあったでしょう。

こういったことを思いますと、上村松園は一生絵だけを描いていればいい人生を送ったので、本当に特別だったのだと思います。画才も飛びぬけていますが、絵だけに集中して、絵を描くことしかしなかった生涯。
この二人よりも年上の上村松園は、女性が絵を学ぶことすら認められなかった時代に画学校に通い、周りの無理解に抵抗しながらひたすら絵を学びます。そうして早くに作品が認められるようになります。
松園を支えたのは母親でした。父親は生後すぐに亡くなりました。母親は女手一つで松園を育て、松園の絵に対する情熱を理解し、松園が絵だけに集中できる環境を整えました。
やがて松園は未婚のまま子供を産みます。父親が誰かは生涯口をつぐんでいました。その子供を育てたのもこのお母さんです。やがて母親が年を取ると、子供が成長して結婚して、今度はお嫁さんが家事をしてくれます。本当に絵を描く以外のことをしないで過ごしたすごい人生です。

「三都三園」と並び称されながら、この三人の一番の違いは画風よりも人生の違いが大きいように思います。
夭折した池田焦園、結婚で画業を挫折した島成園(長生きしたので、晩年まで細々と絵は描いていた)。
それに対して長生きして、結婚もせずひたすら絵を描き続けた上村松園。

この展覧会では3人のほかに同時代の美人画の画家の絵も同時に展示されていました。鏑木清方、伊藤深水、土田麦僊、北野恒富など。それぞれの画風の違いを見渡すことができて興味深かったです。

学芸員による解説タイムもありました。こういうのがあると展示に対する理解が深まっていいですね。
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